【連載】箱根事後特集『繋』最終回 千明龍之佑駅伝主将

陸上競技

 駅伝主将を務めた千明龍之佑(スポ4=群馬・東農大二)。トラックシーズンは4年間で一番良かったと振り返るほど順調にタイムを伸ばし、対校戦や日本選手権で入賞するなど背中でチームを引っ張ってきた。だが苦しめられたのが駅伝シーズン。自分がケガで出られない中でも主将として優勝を目指し声をかけ続けなければならない。早大での4年間、最後の東京箱根間往復大学駅伝(箱根)までどんな思いで取り組んできたのか。いち競技者として、そして初めてキャプテンを経験して感じたこととは。

※この取材は1月26日にリモートで行われたものです。

「(チームの展開が)思い通りにいかないときに自分の力通り走れる選手、自分の力以上に走れる選手がやっぱり少ないチームだった」

8区を走る千明(©︎関東学連/月刊陸上競技)

――箱根までの状態について。 改めて振り返ると、調子や自信はいかがでしたか

 正直ケガが11月末ぐらいまで長引いてしまったのは予想外でした。去年よりも準備期間は短くて十分な練習が積めないことは自分でも分かっていたので、やれるだけの事をして臨もうと考えてはいたのですが、不安の方が大きかったですね。

――去年よりも復帰具合が順調でなかったのですか

 ケガをしてから復帰するまでの戻り具合は人よりも早いと感じていたので、去年も間に合いましたし今年もなんとか間に合うだろうとは思ってはいましたが、やっぱり1カ月ぐらいしかなくてやれる練習も限られていて。練習はちゃんとできたのですが1カ月という期間は少し不安材料でした。

――箱根前の取材の際、ちょくちょく走ってしまっていたのも長引いた原因かもしれないと仰っていました

 そうですね。お医者さんからも治りがそんなに遅い部分ではないと聞いていたので、大丈夫になったらすぐ走れるように、ちょくちょく確認してしまい、長引いてしまったのかなと思います。

――8区出走が確定したのは前日だと思いますが、自信はどれくらいありましたか

 いつも走り出してみないと分からない部分も多くあるので、去年ぐらいでは走れるかなという自信はあったのですが、「もう最後だしやるしかない」という気持ちでいたので、そんなに当日不安はなかったですね。

――自身として最後の箱根であり、チームとしても難しい流れでタスキが渡りましたが、プレッシャーはありましたか

 去年も、今までも何回かシード争いのところでスタートしていたのでそんなにプレッシャーはなく、今年はいつもより落ち着いてスタートしていたかなと思います。

――前半抑えて後半上げるプランで、実際遊行寺からすごく上がっていました。力を発揮できた要因は

 去年も8区を走って、力を貯めて遊行寺を迎えられればそこから上げられる自信はありました。本当に8区は最初の10キロと遊行寺からの5、6キロは別物なので。万全な状態だったら平地もハイペースで行って遊行寺からも切り替えられれば区間賞争い、区間新も見えてきたと思いますが、ケガ明け、差し込みもありました。(それでも)昨年と同様に落ち着いて入って、余力が残っていたのが(後半上げられた)要因かなと思います。

――改めて箱根を振り返ると自分の走り、そしてチームとして、結果はどのように受け止めますか

 箱根だけ見ればやっぱり流れが悪くなって、その流れを変えられる選手が少なくて、流れが変わったと思ったらまた落ちてしまったりということがありました。タイムだけ見れば速いチームでしたし、それこそ優勝も狙えるチームだったとは思うのですが、思い通りにいかないときに自分の力通り走れる選手、自分の力以上に走れる選手がやっぱり少ないチームだったのかなと思いました。

 出雲(出雲全日本大学選抜駅伝)と全日本(全日本大学駅伝対校選手権)は割と良い位置で推移していたのですが、やっぱり20キロになって1区から苦しい状況になったとき、後ろから選手をごぼう抜きしていける人とか、ハイペースでガンガン押していける人がいなかったというのが、レースを見ていて思いました。


「4年間全部大変でしたし、楽しかった」

――この1年間、箱根だけではなく、いろいろな大会で結果を残してきました。ご自身としてこの1年はいかがでしたか

 個人的には本当に成長させてもらった1年だったので、最後箱根を良い結果で締めくくりたかったのはあるのですが、それ以上に成長することができたので、競技者として本当に大きな1年だったと思います。

――どのような部分で成長を感じましたか

 キャプテンになったこととか、あとはトラックシーズンで一つ上のレベルにいけたこともそうですし、いろんなケガを経験して難しさも知れたことは今後に生きるかなと思います。個人としては良いことも悪いことも経験できた大事な1年だったと思います。

――トラックで一つ上に、というのは日本選手権などですか

 そうですね。まずタイムで自分の壁を破れたことと、日本選手権はそんなに準備ができていなかったのであまり狙ってはいなかったのですが、関東インカレ(関東学生対校選手権)などで自分のレースができたことは、今までの自分とは違うところかなと思います。

――4年間を振り返ると、一番濃かった期間や印象深いことがあった年は

 どの学年でも結構それぞれに思い出があって。4年間全部大変でしたし、楽しかったですね。

――4年目を振り返ると、すぐに浮かんでくるのはどんな言葉でしょうか

 4年目は…大変でした。大変というのが大きいかなと思います。やっぱりチームをまとめるのもそうですし、自分の競技に関してもケガが多かったのでまずそこは大変でしたし。自分のことだけじゃなくてチームのことも見なくてはいけないのも3年目までと違って、難しいところが多かったですね。

――改めて早稲田大学という大学で駅伝主将を務めるというのは、いかがでしたか

 なってからいろいろ大変なことがあって、やっぱり伝統ある部活ですし、僕たちだけで活動しているわけではないので。あとは僕らの知らない人もたくさん関わっての競走部なので、いろいろ難しかったですが、キャプテンをしたことによって自分の中で行動とか、責任感も少しは出てきたのでそこはやらせてもらって成長できたのかなと思います。

――どんなことが大変でしたか

 僕個人としては、チームを運営していく上でどうしたら良くなるのかと考えてやってはいたのですが、チームが変われたところも変われなかったところもありました。そういうところもわりと前半までは一人でやっていましたが、後半は半澤(黎斗、スポ4=福島・学法石川)とか4年生に協力してもらって何とかやってこられたので、そういうところは大変でした。

――途中でやり方を変えたきっかけは

 駅伝シーズンに4年生のケガが増えてきたときに、そういう意見が後輩から出て。その前から4年生で話してはいたのですが、それもあってさらに4年生全員で考えていこうと思って変えました。

――箱根までのミーティングでは、「4年生は駅伝で勝つ気はあるか」など後輩からもいろいろな声があったと思いますが、どう受け止めましたか

 僕らが下級生の時にもそういうことを言っていた時もありましたし、やっぱり良くも悪くも4年生がチームの舵をとっているので、まあ4年生になったら分かるのですがそういうところはしょうがないし、やっぱり4年生として最後までちゃんとやらなくてはいけないというのはそこで感じました。

――ご自身が下級生のときと、4年生に自分がなって見えるものも違ってくると思いますが、その辺感じることありましたか

 下級生の時は、まあ割と、何でも言えたし4年生の、なんだろう、見えている部分しか分からなかったのですが、なってみていろいろ大変なこととかもあって。そこはなってみて感じましたね。大変だと。

――いつから主将をやりたいと考えていましたか

 下級生の時からなりたい気持ちはありました。やっぱり歓太さん(清水歓太、平31スポ卒=現SUBARU)とか太田さん(太田智樹、令2スポ卒=現トヨタ自動車)の姿とかに憧れていたので、なりたい気持ちは結構下級生の時からありました。

――下級生の時からチームに対して意見を言っていたと思いますが、上級生、責任ある立場になるにつれて発言に変化はありましたか

 言わなくてはいけない立場だったので発言自体は増えました。ただ下級生に比べて思ったことを言わなくなったというか、ちょっと考えてから言うようになったので、そこはいいのか悪いのか分からないですが、そういうことは少し変わりましたね。

――キャプテン、人を引っ張る経験が今までない中で、その立場を担ってみていかがでしたか

 今までは発言してもそんなに責任がないというか、何もない立場からの言葉だったので何も考えずに言えていたのですが、やっぱり責任がある立場で発言、行動していくというのは重みがあります。言っている分自分がちゃんとしないといけないところもあるので、そこはなってみて(今までと)違うなと思いました。

トラック・駅伝両方で勝つ難しさ。それでもチームは進化していた

次期駅伝主将の鈴木創士(スポ3=静岡・浜松日体)からタスキを受け取る千明(右)(©︎関東学連/月刊陸上競技)

――どんなチームにしたいと思ってこの1年取り組んできましたか

 トラックで結果を残して駅伝で勝つということを僕が思っていて、結構それは相楽さん(相楽豊駅伝監督、平15人卒=福島・安積)も今年言っていました。チームとして記録の更新だったり、トラックのレースをしっかり勝っていこうとやっていました。その目標は、トラックシーズンである程度スピードもつけることができて、チームの平均タイムも上がってよかったのですが、やっぱりトラックから駅伝に対応させていくところが難しかったです。

――チームとして、トラックではインカレでの好成績や日本選手権多数出場と結果を残されたと思います。普段から工夫したことや意識していたことはありますか

 ポイント練習の質とかも例年より上がっていましたし、練習、メニューでの設定タイムに対してのみんなの考え方はどんどん変わっていって、質の高いものになっていました。例年よりもスピードは強化できていたのかなと思います。

――設定タイムへの考え方というのはどのようなことでしょうか

 昨年とかおととしだったら速いタイムで本数が少なかったりしましたが、だんだん本数が増えていったり設定タイムが上がっていったりして、自分たちのやっていた練習を進化させていくというか。どんどん上を目指してやっていくところはみんな意識していたと思います。

――それは指導陣による変化か、それとも学生によるものですか

 メニューは監督が立てていたのですが、それをだんだんこなせて選手たちもスピードがついてきていると感じたり、結果も出てきたり、どんどん常識が変わっていった感じがあります。

――それはいつ頃からですか

 僕たちが大迫さん(傑、平26スポ卒)の合宿に行ったとき相楽さんが見学しに来ていて、メニューもそれから少しずつ変わっていって。設定タイムが上がっていったり、あとはチーム分けもAチームの上にもう一つ作って、Aチームの練習にプラスで速くしたり(本数を)増やすグループができて、そこは3年生の終わり、合宿からだんだん変わっていったなと思います。


「主力だし、主将だし、最後だし」。苦しんだ最後の駅伝シーズン。卒業後は世界を目指す

――キャプテンとして、きついこともあったと仰っていました

 出雲と全日本が走れなくなった時は、今までは主力だからちょっとチームに迷惑をかけて申し訳ないなという気持ちはあったのですが、やっぱり今年は主力だし主将だし最後だしというのもあって。自分が出ない大会でもチームに対して何か言わなくてはいけないし、優勝を目指して引っ張っていかなくてはいけないしっていうところが。出れなくてもそういうのをやるのは、悔しさもありましたし、大変でしたね。

――来年度のチームには、どんな部分の強化が必要だと思いますか

 やっぱり全員がピーキングを合わせられることと、あとは気持ちの浮き沈みをなくして全員が同じところに向かって最初からできていれば、良い結果がついてくるのではないかなと思います。

――進路はどんな決め手で選びましたか

 小さい頃から花田(勝彦)監督とは面識があって、上武大学の監督だったので群馬というところにも縁を感じましたし、早稲田出身だし、五輪にも出場されているので、そういう人のもとで僕も五輪を目指したいなと思って決めました。

――判断の要素としてはどこが大きかったですか

 プロ的なシステムでできるっていうところもそうですし、引退後のセカンドキャリアは指導者としてやりたいなと思ったので、それだったらプロみたいなところでもいいのではと思いました。大きい所でやるよりかは一人一人見てくれる所でやっていきたいなというのもありました。

――今後の目標は

 まずは5000と1万メートルで、直近の目標としては世界選手権と五輪の選考があるので、5000メートルではそのタイムの13分13秒を目標にしていきたいです。1万メートルもまずは27分台を出して、そこからどんどん更新していきたいと思っています。あとはいつになるかわからないですがマラソンにも挑戦したいので、トラックでしっかりタイムを伸ばしてマラソンにいきたいと思います。

――ありがとうございました!

(取材・編集 布村果暖)

◆千明龍之佑駅伝主将(スポ4=群馬・東農大二)(ちぎら・りゅうのすけ)

2000(平12)年3月3日生まれ。169センチ。群馬・東農大二高出身。スポーツ科学部4年。第98回箱根8区1時間5分23秒(区間5位)卒業後はGMOアスリーツで競技を続ける千明選手。トラックでスピードを磨いた後、マラソンに挑戦したいと口にしました。さらにその後は指導者という関わり方にも興味があるそう。「小さい頃から好きな先生が体育の先生で、よく面倒みてもらっていたりしたので憧れみたいなのはありました」。早大では教育実習も経験し、「めっちゃ大変でしたけど楽しかったです」と振り返ります。中学か高校、そして地域のクラブでの指導も面白そうだと感じているそうです!