【連載】『令和2年度卒業記念特集』第64回 伊東利来也/競走

陸上競技

早稲田だから、強くなれた

 ゴール直後、天を仰いで雄たけびを上げた。2020年日本選手権決勝。「やりたいことよりも自分が輝ける場所で」と400メートルを選んだ伊東利来也(スポ=千葉・成田)は、日本最高峰の表彰台の、最も高い場所で輝いていた。

┃思いがけない躍進

 中学から陸上を始め、全日本中学選手権でも入賞した伊東。高校でその強さにいっそう磨きをかけ、先輩らと共に日本選手権リレーに出場した。そこで目の当たりにしたのが、当時4×400メートルリレー(マイルリレー)で4連覇を遂げた早稲田の強さ。個人としてもチームでも成長できるだろうと、よりハイレベルな環境を求めて早稲田への進学を決めた。

 総体や国体で実績を残していた伊東は、入学してすぐにその頭角を現す。400メートルでこそ全日本学生対校選手権(全カレ)に出場できなかったものの、1年生ながら強豪・早稲田のマイルリレーメンバーに選出され、関東学生対校選手権、全カレ、日本選手権リレーを経験した。

日本選手権に初出場した伊東

 「終わった瞬間、100点満点だと思った」。大学2年での成長は、伊東にとっても予想外だった。入学当初、400メートルの目標は自己ベストから1秒程度速い46秒前半。日本選手権の決勝に残るレベルのタイムを「4年生くらいまでに出せればいいかな」と考えていた。それを5月の大会で早々に更新したのだ。

 翌月には念願の日本選手権に出場する。自己ベストを更新した勢いのまま、初出場ながら3位入賞を果たした。そこでは、「同じ日に100メートルの決勝もあったので、報道の人とかもすごくたくさん来ていて、今まで浴びたことがないような注目を体験できた」。レース内容はもちろん、結果から得られた影響力の大きさは、大舞台に立ったばかりの伊東にとって衝撃的であった。

 伊東の躍進はまだ止まらない。全カレでは45秒台に突入し、予選、決勝と2度自己ベストを更新した。入学時の目標以上のタイムは、自分でも疑うほど。決勝では2位に入ったが、伊東は予選が最も印象深いレースだという。初めて45秒台で走ったことはもちろん、当時から400メートルの第一人者であったウォルシュ・ジュリアン(東洋大、現富士通)に先着し、1着でゴールしたのだ。「記録、レース内容、順位共に個人的にここまでいいレースができたのは、自分がすごく調子いいんじゃないか、陸上楽しいなと思えた、一番のレース」。とんとん拍子に記録も結果も残していった。

┃葛藤の連続

 アジア選手権に世界リレー出場、世界選手権代表選出、全カレ優勝。3年時の成績を見ると、前年以上に大きく飛躍した1年のように見えるだろう。だが、自身の満足度はさほど高くないという。伊東にとっては、競技としても、個人としても、最も苦しい1年であった。

 世界での経験は積めたものの、満足いく結果ばかりではなかった。アジア選手権では決勝進出は果たしたが、レーン侵入のため失格。ユニバーシアードの選考会では自分の走りができず、選考からは漏れてしまった。世界選手権も実際に出走はかなっていない。「取りこぼしが結構多かったのかなと。そういった部分で自分の理想と現実の乖離(かいり)を感じた」。

 さらに全カレでの優勝も、伊東にとっては「喜びが小さいと思うほど安心感が大きすぎた」レースであった。直後に行われる世界選手権に向けて調整するため、足を温存する選手が多数。そのため伊東は自らに優勝を課していた。また、少しでもいい順位を取ってチームに得点を持ち帰らなければいけないとも感じていた。「絶対に勝ち切らなきゃいけないという多方面からのプレッシャーが大きかった」。どう勝つかにとらわれ、終わった後に残ったのは達成感よりも安心感だった。

 

全カレで優勝をつかみ取った伊東

 伊東はそれだけの実績を残しながら、競走部主将という務めもあった。最上級生がチームの雰囲気や成果を決めるが、自分がその立場になったらどう引っ張っていくのか。チーム内でのビジョンを描き切れない不安はついぞ消えなかった。主将として組織を引っ張っていくことは容易ではない。まして、競走部という伝統ある大きな組織ならなおさらだ。非力さを感じながら取り組み、常に挫折感を感じる日々。競技面で成長が滞ったことも相まって、「陸上競技というもの全部ひっくるめて好きじゃない、きついものと思っていた」。行き詰まりを感じていたところへ、さらにコロナ禍が競走部を襲う。チームは解散となり、部員の大半が地元に帰省。全員で集まって練習することはできなくなってしまった。

┃コロナのおかげで

 だが、ターニングポイントはここにあった。チームで集まらないことで負担が減ると同時に、一人の時間が増え、自身のあるべき姿を見つめ直せた。プレッシャーだと感じていたのは自分の中で勝手に作り上げたもの。そう考えると不安や挫折感が薄れた。嫌いだと思っていた陸上は、競技だけ見ればそうではなかった。本当にきつかったのは、「まだうまく成果を出せていなかった組織運営で自分の無力さを感じていた部分」だったのだ。「本心から、ただその毎日自己研鑽(けんさん)を続けることがいいなというところに落ち着いた」。気持ちの整理がつき、陸上競技は好きなのだと再確認できた。

 試合がなくても、モチベーションは下がらなかった。「これまでは試合で負けないため、勝つためというところで練習をしなきゃいけないという捉え方だったんですが、コロナ禍で試合がなくなったことで、ある意味プレッシャーから解放された部分もあって。陸上競技を純粋に楽しむ、じゃないですが、自己研鑽を続けることそのものに楽しさを感じた」。伊東にとって、コロナ禍はプラスの影響ばかりであった。

 そして迎えた日本選手権。「自分のレースをすれば必ず勝てるぞという認識はあって」。精神的にも身体的にも整った感覚があり、礒繁雄監督(昭58教卒=栃木・大田原)との会話の中でもその確信を持った。決勝では、前半からぐんぐん加速。ラスト100メートルでも一人段違いの伸びを見せる。最後はダントツでゴールに飛び込む圧巻の走りで、初優勝を飾った。

 

日本選手権で優勝を遂げ、笑顔を見せた

 日本一の座まで手にした伊東だが、自身の印象は薄い。3年の全カレ優勝と同じように安心感が上回ったレースだったためだ。また、実際に数字として目に見える記録が伊東の中では重要な要素。自己ベストを更新したレースではないため、2年時の方が評価は高いという。そこには、あくまでも自分と戦い続けている伊東の姿があった。

┃早稲田だから、できたこと

 「レースに対して決めつけていないこと」。それが、伊東が多くのレースで安定した成績を残せている要因だという。レースプランや走りのマイナーチェンジを繰り返し行う。その中で、「フォームを変えるという、変化を起こさなければいけない攻めの部分と、自分の走りをどう合わせていくかという、チューニングという守りの部分」がある。大幅な自己ベストのためには前者が、試合での安定したパフォーマンスのためには後者が必要だと話す。両者をうまくコントロールしながらも、「守りの練習が得意」なことが安定感につながっている。

 大学時代、苦しんだ時期はあったものの、けがもなく順調に力をつけてきている。どうしてこれほどまでに成長できたのか。その答えは、「早稲田だから」だった。大幅な自己ベストは、ストライドを意識した走りの改革が奏功したから。4年間で自分の走りの特徴がつかめたのも、スポーツ科学部に所属し、競技にストイックな環境で臨めたから。チームメートと寮生活をしていたことも精神的に大きな支えだった。「みんなが常に夢を描いて語り合うような、そういったものが日常に転がっていた」。強くなりたいと早稲田を選んだ伊東は、その環境を存分に生かして躍進を遂げた。

 「今現在が過去を評価する」。過去に挫折があっても、現在が良ければ必要な失敗だったといえる。逆に現在が悪いのなら、過去の良い結果はただの栄光で終わってしまう。「この4年間というのは、楽しかったこと苦しかったこと含めて良かったと言えるように、今後の人生を歩んでいきたい」。伊東は、今後の目標を「400メートルでオリンピックの日本代表として走る」ことだと強く言い切った。くもりのないその目は、はっきりと未来を見据えている。

(記事 朝岡里奈、写真 平松史帆氏、加藤千咲氏、競走部提供)