昭和62年にテレビ中継が始まると、東京箱根間往復大学駅伝(箱根)はお正月の風物詩として、さらなる注目を浴びるようになる。しかし、早大は大エース渡辺康幸(現駅伝監督、平8人卒・千葉=市船橋)が激走した第69回大会以降優勝から遠ざかり、次第にシード権を獲得も難しくなっていく。
平成16年、この危機的状況を打破するため渡辺氏が駅伝監督に就任。北京五輪日本代表の竹澤健介(平21スポ卒=現住友電工)などを育て上げ、早大を優勝争いのできるチームへと変えていった。そして平成22年、優勝を狙える戦力が整うと渡辺監督は学生3大駅伝『三冠』を宣言。この大きな目標のもと、早大は10月の出雲全日本大学選抜駅伝(出雲)を14年ぶりに、11月の全日本大学駅伝対校選手権(全日本)を15年ぶりに制し、残るは箱根制覇のみとなった。18年ぶりの優勝と史上3校目となる『三冠』をかけた第87回大会は早大の主力に故障が相次ぎ、東洋大との激しい戦いになる。しかし、当時『谷間の世代』と呼ばれていた早大の4年生が意地の走りで東洋大を振り切り優勝。渡辺監督は笑顔で大手町の空に舞った。
この『三冠』メンバーで箱根の8区を走った北爪貴志(平23スポ卒=東京・早実)は2年前から母校の早実で陸上部の監督を務めている。わずか2年半の指導歴ながら、国体優勝、高校総体2位の選手を育て上げるなど活躍する北爪氏に当時の思い出や指導者としての目標などを伺った。
※この取材は7月16日に行ったものです
「頑張ることだけが努力じゃない」
4年間の思い出を振り返る北爪氏
――入学当時のお話から伺っていきたいと思います。入学された時の競走部の印象はいかがでしたか
高校の陸上部の雰囲気がわきあいあいで、自分達で考えながらやっていて、上下関係とかもそれほど厳しくないという環境でやっていたので、きっちりとした組織だなと思いました。上下関係とかOBの組織とかもしっかりしているし、大学からのバックアップも非常にしっかりしていて、高校の部活と比べると伝統もあるし規模が大きいなと感じましたね。
――当番などはいかがでしたか
最初は慣れるまで大変でした。ただ、自分達で使っている寮ですし、きれいにしなければという思いがあったのでそんな苦でもなかったかです。あと同級生同士が仲良かったので、一緒に励まし合いながらやっていたのでうまく乗り越えられましたね。
――競技面ではどのような苦労がありましたか
競走部という組織に入って一番変わったのは自分が実力面で上の方の人間じゃなくなったことですかね。やっぱ中学、高校とチーム内の実力では上の方にいて、駅伝のメンバーだったら間違いなくメンバーには選ばれていたのに、競走部に入ると同級生や先輩に全国トップレベルの選手がゴロゴロいて、そういう中で練習していくって経験がいままで無かったので実力のカベっていうのを感じました。
――その中でAチームに最初に入られたのはいつ頃だったのですか
Aチームにちゃんと定着し始めたのは、3年生の夏くらいからでしたね。3年の夏に初めてAチームの合宿に参加させてもらって、そこでしっかり練習が積めて定着し始めました。
――それまでほとんど公式戦での出場がなかったのにも関わらず3年生のときには出雲の補欠メンバーに選ばれました。3年生の夏がターニングポイントになった印象があるのですがいかがですか
純粋に夏合宿で練習が積めてたってのが一つで、あと初めてAチームで合宿に行かせて頂いて、その中でレベルの高い練習をしていって自分なりに手応えを感じたし、自信になったってのがあります。もちろん5000メートルとか一万メートルとかハーフ(マラソン)のタイムでいったらすごく差があるんだけど、練習で何回も一緒に走っているとひょっとしたら渡り合えるのかなっていう瞬間がたまにあって、そういう体験が自信になりました。自分が絶対たどり着けないレベルじゃないのかなっていう現実味がそこでうまれましたね。
――それは1、2年生の時から積み上げてきた土台がしっかりしていたからですか
1、2年生の時は大きなケガはなかったけど、疲労骨折が多くて、走っては疲労骨折で試合に出て、また疲労骨折しての繰り返しでした。もちろん2年間積み上げてきた土台があっての3年目だったけど、1、2年生の時はケガに苦しみましたね。逆に言うと3年生になってケガが減ったっていうのが大きかったかな。
――ケガが減った要因はなんですか
予防を学んで、こうすれば負担がかからないんだとか、ここをケアすれば自分の走りが崩れないとかを理解できるようになったというのはあります。でも、一番はただ単にがむしゃらに無理をするっていうことを止めたっていうことですね。入って1、2年目っていうのは実力も下の方だったから足に違和感があっても走れなくなるまで頑張らなきゃいけないって思ってたけど、それって長期的な目で見たら、全然チームのためになってないんだよね。目先の記録会に出たいとか、走りたいっていう欲求に全く勝てなくてケガを繰り返してた。だからその思考を長いスパンで見てチームのためになる方向に変えていって、違和感があったら無理をしないようにしました。でも、ただ練習を止めるだけだと周りから見たらなんで練習をしないんだって思われるから、その理由をしっかり伝える。長いスパンで見たら自分はここで無理して練習するよりも、練習を中断した方が、チームが目標としている大会に良い状態で臨めるんだっていうのを指導陣や仲間に伝える作業ができるようになったのが3年生でしたね。
――確かに強い選手は長いスパンで競技を考えることがでる印象があります
そうだね。だからいまうちの生徒にもよく「いい意味で練習をサボりなさい」って話します。サボるって言葉は良くないけどがむしゃらに頑張ることだけが努力じゃない、みんなが走ってるとどうしても自分も走りたくなるけど、そこをグッと我慢して補強する。その辛さに耐えてはじめて強くなれるんだぞってね。まあ偉そうに言ってますけど自分がそれをできるようになったのは大学3年ですけどね(笑)。でもだからこそ、もっと早くいまの中高生に気づいて欲しいです。
――続いてチーム内の話を伺っていきます。1年生の頃の主将は高校の先輩である駒野亮太さん(平20教卒=東京・早実)でした。どのような方だったのですか
高校の先輩でもありますし、自分が高校の時もたまに顔を出してくださっていたので入部する前からよく知っていました。それに自分が中学生の時の全国都道府県対抗男子駅伝で同じチームでタスキもつないだこともあったんですよ。でもやはり入部すると駒野さんは全体の主将ですし、責任感も強い方なので、お互い知っていたこともありすごい厳しく指導して頂きました。まあ当時はなんて恐い先輩なんだろうというのが本音でしたね(笑)。いま思えば入学前から接点があったからこそ厳しくしていただけたんだなと感じています。駒野先輩とはいまもよく食事に誘って頂いたりとかして、仲良くさせて頂いています、もう全然恐いとかそういうのはないですよ(笑)。当時は1年生と4年生で、駒野さんは駅伝主将で、もう気軽に話かけられない存在でした。口数も多い方じゃなかったので常に背中でみんなを引っ張る。そういう先輩でした。
――それではその駒野さんの一つ下の竹澤さんはどのような方でしたか
竹澤さんは偉大な先輩でしたし、北京五輪に出られている方と同じチームにいられたのは光栄でした。竹澤さんはとにかくストイックでしたね。競走部の長距離部員はもちろんみんなストイックなんですけど、その中でも競技に対する姿勢とか、結果に対するこだわりとかは人一倍強かったです。
――駒野さんと竹澤さんの違いとかはどのように感じられていましたか
駒野さんはすごい部員を見ていて、もちろん競技力で引っ張っていくってのもあるんですけど、もちろんそれにプラスアルファして言葉で色んなことを伝えてそれで全体を引っ張っておられました。竹澤さんは逆に言葉で後輩やチームに対して指示を出すことは少なかったんですけど、やっぱり競技に対する姿勢とかで引っ張ってくれていました。竹澤さんを見ていると誰もがストイックだなって思うでしょうし、こういうところにまで気を使っているんだっていうのを感じると思います。
――後輩には八木勇樹(平24スポ卒=現旭化成)さんなど強い選手がおられました。入学してきた時の印象などはいかがでしたか
僕らの世代って『谷間の世代』って呼ばれる世代だったんですけど、一つ下の代はタレントぞろいでしたね。すごいそれぞれがそれぞれの世界観を持っていて、走りも素質のある走りをするんですよ。高校総体の日本人1位、2位、3位が入ってきましたからね。全国で勝ってきてる勝負強さとか自分とは真逆の高校生活を送っていたりとか、自分にないものをもっていたので競技力で吸収できるところはいっぱいあるなって思って接していました。
――さらに4年生の時にはいま大活躍されている大迫傑選手(平26スポ卒=現日清食品)なども入学されました
大迫は東京出身で実は自分が所属していたクラブチームの後輩だったんで、中学の頃からよく知っていたんですよ。それに東京都を強くしようっていう中高の合同合宿とかでも会っていたので面識はありました。ただやっぱり、競技力はすごい高かったですね。竹澤さんとか八木とかもそうなんですけど大迫みたいな選手を見て、正直自分の陸上競技者としての限界を感じたってのも事実。まあもともと大学4年間で競技は辞めようと思っていたけどそれを決定づけたのはそういう上や下の代の走ることに対するポテンシャルの高さを見てでした。大迫の走りはほんとすごい、きれいですしやっぱ素質を感じました。
――先輩や後輩の活躍をいまはどのように見られていますか
今でもすごい見るようにしてる。Twitterで「矢澤(曜、平24教卒=現日清食品)が復活!」とか見て良かった、やっと走れたんだとか思うし、大迫の活躍なんかもね。『谷間の世代』な分そういう強い選手が上と下にいるから、楽しく観戦させてもらってます。
――先輩としては北爪さんはどのような方だったのですか
後輩からしたらそんなにすごい厳しくて口うるさい先輩ではないと思いますね。でも自分達の代からもそういう人間を出さなきゃいけなくて色んな役割分担がありました。だから僕らの代でも後輩に対して厳しく接するという役割の人もいましたね。そういう人のフォローをできるだけしようというのが僕のスタンスでした。
――その厳しい役割の方はどなただったんですか
猪俣(英希、平23スポ卒=福島・会津)だね。あとは駅伝主将だったから中島(賢士、平23スポ卒=現九電工)とか。彼らが後輩を厳しく指導したあとに、猪俣はこういうことを言いたいんだよとかそういうフォローとかしていましたね。猪俣に関しては入学した時も同じBチームだし、最初すごいケガで出遅れてたけど一緒にAチームに上がって最後一緒に箱根走れたんでほんにいい戦友として4年間過ごしました。
――猪俣さんは最後、急きょ山を走られましたが、北爪さんは山の候補などには上がらなかったのですか
登りでちょっとだけ適正があるんじゃないかって思われて、山の適正がある人たちの練習には呼ばれたことはあるんだけど、それに1回行ったきりで、試しに走ったこともないかな。結局期待外れだったみたい(笑)。でもちょっと適正があったから遊行寺のあたりに登りがある8区を自分が任されたんじゃないかな。猪俣はそういう適正ある人の練習には呼ばれていたし、3番手くらいでは考えられていたみたい。まあ大学4年時には純粋な走力もついていたしね。気持ちも強いし試合も外さないし向いていたのかな。
「同期みんなでつくった最後の1年間」
――続いて箱根の話に移らせて頂きます。3年生になり力をつけられ、箱根の8区を走られました。当時メンバーに選ばれた経緯などを教えてください。
正確なことは指導陣にしか分からないんですけど、自分の中では3年で走ったのも4年で走ったのもケガ人や体調不良者が直前に出て、繰り上がって繰り上がって滑り込んで走ったっていう印象ですね。もうだから本当に2回とも変な話ラッキーで出られました。ただ、直前の集中練習とかに関しては3年時も、4年時もしっかりこなせていたのでそういう意味では自分の中では自信をもってスタートラインに立てました。
――やはり集中練習は大きいものなのですか
自分の中では大きいものだと思っていますね。例えば4年の時も自分、上尾シティマラソンのタイムとか全然良くないんですよ(1時間5分41秒で全体71着)。その時点で箱根はないなってぐらいのタイムでした。でも最後の集中練習で練習をちゃんと積んでいって内容もしっかりとしたものだったので自信を持って臨めました。自分の中ではいかにあそこで集中して練習するかっていうのが大事でしたね。30キロ走とかやるし、やっぱりあの時期だけは特別かな。チームの雰囲気とか空気とかも異様な感じになります。
――3年生の時に箱根を走られて、区間6位でした。その後走られて変わったこととかはありますか
箱根はずっと憧れていた舞台で沿道の応援とかもすごくて、やっぱりまたここの舞台を走りたいなっていうのをすごい思いました。自分はその箱根を走るってことを大きな目標にしていたわけではなかったんですけど、でもやっぱり走ってみて自分の中でこの舞台で走って総合優勝したいという目標が生まれました。走ってる時のチーム順位は9番で、一つ自分が間違えればシード争いに巻き込まれるっていうのがあったのでとにかく前を追ったのを覚えています。あとで区間6番と聞いて同じ区間を走ったメンバーの中でもタイムが良い方じゃなかったので、意外と持ちタイムや自己記録じゃ計れないなっていうのを感じましたね。なので、もしもう1回走れるなら区間順位を狙いたいなっていう欲も出てきました。今までなんて箱根なんて走ったことないし、ましてや区間賞なんて全くイメージがわかなかったけど一度走ったあとにはイメージできるようになりましたね。いま思うと3年で箱根駅伝を経験できたのは4年の時にすごく良い影響を与えました。
――7区と8区の中継地点では高校の後輩である萩原涼さん(平25人卒=東京・早実)とタスキをつながれましたが、何か特別に感じたのではないですか
7区が後輩の萩原で高校時代も全国高校駅伝とかでも一緒にメンバーとして走ってたからタスキリレーできたのはすごい嬉しかったですね。完全に内輪の感情で申し訳ないんだけど(笑)高校の顧問の先生とかも中継所に来てくださってすごい喜んでくださいました。早実生同士のタスキリレーは初めてって言ってたかな。
――続いて『3冠』当時のお話を伺っていきたいと思います。前年の箱根を7位で終えられ、春には渡辺監督が『3冠』を宣言されましたがその時の状況を教えてください
箱根は7位でしたが、戦力はそろっていると思っていました。一つ下の代が強くて、大迫っていうルーキーが入ってきて、これにさらに4年生の意地が加われば『3冠』もいけるんじゃないかって思っていました。だから渡辺監督の「ことしは大学駅伝の『3冠』を狙う」って宣言も説得力がありました。
――年間通してのチームの状況はいかがでしたか
良かったですね。自己ベストがけっこう出ていたと思うんですよ、Aに限らずBとかでも、そういう意味でチームに勢いがありました。
――夏合宿では渡辺監督が選手と一緒に走られているという報道もありましたが、やはり本気度は伝わってきましたか
渡辺監督が一緒にジョギングとかをしてくださって、コミュニケーションをとってくださって、そういう意味では監督と選手の信頼関係とかもその年はより強かったのかなって思います。ただ一緒にジョギングするだけですけどそこでしか聞けない監督の現役時代の話とか聞けて、すごいモチベーションアップにもつながりました。
――その後、出雲や全日本で勝たれて、やはりチームの状況は上がっていましたか
みんな自信持ってスタートラインに立っていました。自分なんかは出雲や全日本は走っていないんですけど、すごい勢いのある選手でもメンバーを外れていたりしていたのでチーム状態は良かったです。
――北爪さん自身走れない悔しさなどはどのように感じられていましたか
走れない悔しさはゼロではないですけど、自分の中でもこれだけ陸上競技をやっているとある程度自分の役割が分かってきていて出雲、全日本で走って優勝に貢献する能力があるかって聞かれると大学4年の時にはなかったので、多少割り切っていました。自分が走れないってことは裏を返せばチームの状態が万全ってことだったので、悔しさはありましたが自分の目指すところは箱根の8区かなって思って備えていました。
――出雲と全日本を2冠で終えられて、迎えた集中練習では主力選手が故障されましたがその時のチーム状況はいかがでしたか
出雲、全日本と活躍した選手の故障だったので、全く動じなかったってことはないですけど、自分はボーダライン上の選手でしたし(役割が)まわってくればいつでも走れる準備はしていました。集中練習ではしっかり練習が積めていたので厳しい戦いになるかもしれないけど、まだまだ優勝を狙えるなって思っていました。特に4年生は下級生の主力選手ともしっかり渡り合えていたので。二人がケガをして動揺する部分もありましたけど逆にチームに緊張感はうまれました。
――集中練習の最後の方は調子が良かったのですか
そうですね。自分でも手応えありました。走れと言われればいつでもいけるって準備はしっかりできていましたね。
――そうして迎えられたレースでは、前年の9位ではなく1位でタスキをもらわれましたがどういう気持ちでしたか
緊張しましたね(笑)。あとは実感が全然なかった。こっち側から第1中継者を見るのが初めてで、あそこにアナウンサーがいて、あそこに大きいレンズのカメラがあるんだ、意外と遠いんだなって感じていました。走りながら何を考えてるんだって話ですけどね(笑)。
――1位でタスキ渡しがあるというのが7区の序盤くらいには分かっていたと思うんですけど、走る前はどんな気分だったのでしょうか
自分の中では緊張していないつもりだったんですけど、あとでテレビを見たらむちゃくちゃ顔が引きつっていましたね(笑)。三田裕介(平24スポ卒=現JR東日本)からタスキを受けたんだけど、その時の三田も好走してきてくれてタスキ渡しの時に「北爪さん優勝しましょう」って言ってくれて一気にモチベーションと集中力が上がって優勝するぞって気合入りました。
――後ろから追ってきた東洋大の千葉優選手は実績のある選手でしたが恐さなどはありませんでしたか
正直、ありました(笑)。たしか千葉が2年の時に中島が8区で走ってトップ走っていたのに逆転されたんだよね。経験もあるし、間違えなく区間賞争いになるなって思っていたから逃げる恐さは当然あった。でもある程度つめられるのは分かっていたから焦りはなかったかな。沿道で部員が後ろとどれくらいか掲示してくれていたのだけど、1回遊行寺の坂で1分あった差が1分2秒とかになったんだよね。その時に後ろも余裕がないんだって気づいて、じゃあもうつめさせないと思って走った。結局1分は切っちゃったんだけどね(笑)。
――遊行寺を超えたあたりから優勝を意識されるなんてことはありましたか
いや、全然優勝なんて意識できないよ(笑)。優勝は意識できてないけど、3年の時に遊行寺登ったときはけっこうそこでしんどくなっちゃったのに、4年の時は経験もあったから余裕度はありましたね。もう1回ここから切り替えられる、トップではタスキはつなげる。あとは後ろの2人任せたっていうね。
――それで、最後までトップでタスキをつないで大手町に帰ってこられました。優勝した時の気持ちはいかがでしたか
嬉しい以外の言葉が出てこないです。ずっと目指してきたことだったからね。22歳にもなって嬉し泣きなんてすると思わなかった(笑)。
――周囲の反応はいかがでしたか
周りもすごい祝福してくれて、改めてこんなにたくさんの人が見てくれていたんだって感動しました。でもやっぱり1番の気持ちはみんなで『3冠』を目指してきた中で、『谷間の世代』って言われていた自分ら4年生が下級生と衝突することもあったけど、なんとかみんなで同じ方向を見て頑張って、それを実現できたのが一番嬉しかったです。
――やはり同期の方の存在は大きかったですか
すごく大きいね。同級の長距離男子は入部した時から誰ひとり辞めなくて、全員で1年から4年までやってこられたから、大きな存在でした。個人的な感情になっちゃうんだけど同級に高校から一緒にやってきた湯浅義人、伊藤和麻、山口大輔(共に平23スポ卒=東京・早実)っていう三人がいて、三人は箱根を走ることはできなかったんだけどその中で一人でも走れたっていうのは良かったかな。あと『谷間の世代』で下に実力ある人が多かったから、うちの代は学年全体で一つの方向を目指していかないと下がついてこなかった。だから何度も同期でミーティングもしたし、そういう意味では同期みんなんでつくった最後の1年間だったと思います。
――箱根は北爪さんにとってどんな大会ですか
小学校とか中学校の時はただの夢の舞台でしかなかったね。夢の舞台が目標の舞台になって感じたけど、本当に良い大会だなって思います。一言では説明し難いね(笑)。ずっと夢の舞台で走りたいって思った舞台で、総合優勝したいっていう舞台で、いまになってはぜひ教え子に走ってもらいたい舞台ですね。やっぱりメディアとかの取り上げ方もすごくいし、沿道の応援もすごいし、これだけ多くの人が観戦してくれているんだって実感できる大会でもあるんですよ。箱根は本当に多くの方のサポートがあって開催されているので、その中で自分が走らせてもらうことは本当にありがたいことでした。
――今でも沿道で応援されているのですか
いや毎年、ワセダの手伝いで行かせて頂いています。きょねんもスタートの方で付き添いのOBとして手伝いをやらせて頂きました。
――それは、どういう方が参加されるのですか
全員が全員ってわけではないんだけど、仕事の関係とかで手伝えるOBが声をかけられてね。学校は年始は休みだし、時間がとれないこともないので、ことしも機会があればぜひ手伝わせて頂きたいです。
「日本一の部活にしたい」
相談にきた生徒にアドバイスを送る北爪氏
――指導者になってからのお話を伺いたいのですが、まず指導者になろうと思われたのはどういうきっかけからなのでしょうか
もともと昔から教育に携わりたいなって思っていました。当初の自分の人生プランでは1度一般企業に就職してからどこかで学校の先生やりたいなって思っていたんですけど、たまたま母校の顧問の先生が定年を迎えられて保健体育科の先生の募集があるってことだったので、早実が好きでしたし、先生として陸上部の指導ができるなら天職だなと思い採用試験を受けさせて頂きました。
――先生業の難しさなどはどこにありますか
すごい大変。やっぱり教員としての経験がない状況で採用して頂いたので初めてのことが多くて大変です。特にことしから中学1年生の担任ももたして頂いたので難しいです。やっぱり陸上競技の専門家として採用して頂いて、陸上部の指導とかを期待されているって分かっているのですけど、まずは保健体育科の教員としてこの学校のためにきっちりやりたいと思っています。でも陸上部の子は自分が陸上専門の先生として来てくれたってことで期待している部分はあるだろうし、その狭間でいま頑張っています。教員としてもっと経験を積めば部活の方とうまくまわしていけるのかなって思っています。
――ずっと先生をやられるつもりなのでしょうか
今、26歳の年で定年が65歳か…39年間突っ走るつもりです。
――部活の指導者としてのやりがいなどを教えてください
今までは自分が競技をしてきた身で、自分が実績を上げるってことを追い求めてきたけど、いざ指導するってときに実績を上げてくるのは教え子の生徒だし、表彰台に上がるのも教え子の生徒だし、それを素直に喜んで見ていられるのかなって不安がありました。でも、きょねんいま高校2年生の教え子が国体少年Bの3000メートルで優勝した時にスタジアムで応援していて、勝った時の嬉しさとか興奮具合とかを感じてやりがいを感じました。そういう意味ではきょねん、それを体験できてちょっと安心しました。指導者も向いてなくないなってね(笑)。あと中高生くらいだと自分に意見を求めてくるし、それでこっちの言葉かけ一つですごく変わるんですよ。競技に対する姿勢とか、練習に対する姿勢とか、こちらのやりよう、言葉かけ、接し方ひとつで彼ら自身が大きく変わるのですごく責任のある仕事だなって思っています。でもその責任感に負けないように自分自身強くならなきゃダメだって思っています。彼らと一緒になってやっていってそれで成長を見られて、それが結果となって現れる。これを経験できるっていうのはすごい自分としてはやりがいを感じますね。
――高校の長距離だけでなく、短距離や中学生も指導されていますがそこもまた難しいのではないですか
大変ですね。今は短距離はコーチの方とかを招いてギリギリなんとか回しています。でも将来的にはもう少し、ルーティーンをしっかり作って自分の方でマネージメントできるように組織化していければと思っています。理想は色んな方からスプリント系とかフィールド系のノウハウを学んで自分で部全体を指導することですね。
――指導者として競走部で学んだ経験は大きいですか
すごい色んな面でプラスに働いていますね。競走部にいたときに色んなそれぞれの競技者から聞いた技術面の話とか、モチベーションの保ち方とかが自分の引き出しになっています。もちろん自分の経験から語れることも多いですしね。それと変な話ですけど、競走部にいて箱根の優勝メンバーになれたことで自分の言葉に重みがうまれたってこともあるのかなって思います。浅はかな考えかもしれませんが中高生だとそれだけで耳を傾けてくれたりもしますし、もちろんそれに甘えていたらダメなんですけど、そこは大きいですね。あとは自分以外の人の話ができますね。こういう選手がこういう考えでやっていたよとか、そういう意味ではあれだけ能力があり、しかも自主性とか判断力だとか賢い選手が多い組織でやらせていただけたのは今に生きていますね。
――指導者になったからこそ感じる渡辺監督の思いとかはありますか
忙しいのはもちろんだし、本当に大変だったんだなっていうのは感じました。渡辺監督は自分が中学の時に声をかけてくださってそこから7年間お世話になったんですが、初めてお会いした時に「7年後に優勝できるチームをつくる」っておっしゃって頂きました。それで3年間早実で頑張って4年後には直属の監督として指導していただいて、その監督を胴上げできたっていうのはすごいドラマがありますよね。ある意味人生のターニングポイントになった出会いでした。中学の時にお会いできなければ今の自分はありませんでした。今は自分が高校の監督としてやっていて、その自分の教え子が渡辺監督に指導を受けているのは縁を感じます。
――1年間の指導になりましたが、武田凜太郎(スポ2=東京・早実)選手はきょねん主力として活躍されました
今季の前半は苦しんでいるみたいだけど、すごい頭が良くて要領も良い子なのでうまく戻ってくると信じています。そうやって教え子が渡辺監督のもとで活躍して、お会いした時も「武田どうですか?」って聞いて「頑張ってるよ、手間かかんないよ」なんて話なんかができるっていうのはすごい光栄ですね。
―やはり教え子には競走部で活躍して欲しいですか
やはり自分が大学の4年間ですごく成長できましたし、すごい良い組織だなっていう自負もあるので、それをあんまり高校の部員に押し付けるのはエゴになっちゃうんですが、そこへの扉は開いてあげたいです。それで大学でも活躍してくれたらそれほど嬉しいことはないですね。
――高校駅伝ではきょねん東京代表まであと一歩でしたし、おととしも見事な区間配置で健闘されました。駅伝の区間配置などを経験されていかがでしたか
難しいですよ(笑)。うちの高校は今でこそ人数が多いですが、もともと少数精鋭でやっているので区間配置とかそういう部分で差をつけていこうっていうのはあります。区間配置とかは結果論な部分もあるので、難しいです。なので駅伝前はなるべく選手と対話するようにはしていますし、普段からある程度この区間を想定するようにとは伝えてはいます。だからここ2年間はうまくいっていますね。たまたまかもしれませんが(笑)。それも生徒が力を出し切ってくれたおかげなんですけどね。
――それでは導者としての目標を教えてください
日本一の部活にしたいです。
――すごく大きな目標ですね
これはもちろん競技力もそうなんですけど、どっちかっていうと日本一になる部活をつくり上げられる部活にしたいです。もちろんこちらからのアプローチで競技面で日本一のチームを作るっていうのもあるんですけど、できれば彼ら自身で日本一のチームをつくり上げられる。そういう部活にしたいですね。うちの部活自体が自主性を重んじているので、そこを大切にしながら、こちら側がアプローチをしかけていきたいです。そして卒業する時に全員が全員この部活に戻ってきたいって思えるようにもしたいです。それがいまの指導者としての目標です。
創部100周年にあたり
記念の色紙には「努力に勝る天才は無し」と記した。
――ことし、早大競走部が100周年を迎えることに関して思うことはありますか
本当にすごい歴史を感じていて自分がいたのはその100年のうちのたった4年なんですけど、たった4年でも自分が携わらせて頂けて、そこに名前を刻めたっていうのは光栄なことだと思っています。自分がこのまま定年まで早実陸上部の顧問を続けていく限り、これからも色んなところで関わることになると思いますし、教え子が競走部に入ることも何回もあるとも思います。そういう意味ではこれからは自分と自分の教え子でここからの競走部の歴史をつくっていきたいと思います。
――それでは北爪さんにとって「走る」こととはなんですか
難しいな(笑)。もう自分の人生そのものみたいになっているからね。小学校2年生の時にちびっこマラソンとかに出て、それから大学4年まで走ってきて、いまはその指導をやっている。そういう意味では人生そのものだし、これからもずっと続いていくよね。それとすごいいい言葉だなって思ったのが駅伝終わってすぐに猪俣が走ることに関して「今までは仕事、これからは遊び」って言っていてほんと頭いいなって思った(笑)。最初は楽しくやっていたけど、途中から結果を残さなければって仕事になっていって、いまも仕事だけど。でも遊び心っていうか初心は忘れたくないかな。
――最後に競走部の後輩に関してメッセージをお願いします
日本の陸上界を見ても早大競走部っていうのは全てにおいてすごく活躍していて、影響力も強い組織です。日本の陸上界をひっぱっているって言っても過言じゃない組織だと思うので、そういう組織に身をおけているっていう幸せとかを感じてぜひ自分のためにも競走部のためにも真剣に一生懸命競技に打ち込んで欲しいって思います。ホームページもチェックしています(笑)。陰ながら応援しています。
――ありがとうございました!
(取材・編集 石丸諒)