【連載】『エンジの記憶』 第3回 金哲彦

陸上競技

 早大競走部は1920年から始まった東京箱根間往復大学駅伝(箱根)に第1回大会から出場していた。当初は優勝争いを頻繁に繰り広げていたが、参加校が増えるにつれ上位進出が難しくなり、昭和50年頃には優勝から20年近く遠ざかっていた。しかし、低迷する早大の監督に今でも名将として語り継がれる中村清(昭13卒)が就任し再び上昇していく。稀代の天才ランナーに育った瀬古利彦(昭55教卒=三重・四日市工)を中心に箱根では一桁順位に返り咲き、瀬古氏の卒業後も少数精鋭ながら優勝争いを演じていた。そして、創部70周年の節目となる第60回大会で後ろを15分以上も突き放し30年ぶりの優勝を収めたのだ。さらに翌年には連覇を達成。箱根に一時代を築いた。

 この箱根連覇に大きく貢献したのが、現在陸上競技の解説者などとして活躍する金哲彦(昭61教卒=福岡・旧八幡大付)だ。山登りの5区を激走し、いまでいう『山の神』としてチームの連覇に大きく貢献。区間新記録も更新した。卒業後はマラソン選手として活躍し、その後NPO法人ニッポンランナーズを創設するなどランニングブームの火付け役となった金氏に競走部の思い出や走ることの意味など多くのことを伺った。

※この取材は5月23日に行ったものです

「とにかく厳しい」

プロランニングコーチ、そして陸上競技の解説者として活躍されている金氏

――ワセダに入学された経緯を教えてください

当時はいまみたいなスポーツ科学部はなくて、教育学部に体育学専修っていうのがありました。瀬古さんも一浪しているぐらいだし、推薦制度もなかった。その中で高校3年の時に同じ高校の一つ上の先輩がワセダに受験して競走部に入っていて、その先輩から誘われたのがはじまり。僕らの世代のあこがれは瀬古さんで、もちろん偏差値の高い大学だというのは知っていたから、あこがれてはいたけど難しいのかなと思っていました。実は中大も箱根を強化しているから、どうかという話もあったんだけど、色々な事情があって中大は受けずにワセダを受験しますということで高校3年の11月だったかな、高校の駅伝の予選があって東京に来た。その時に、全国から受験を予定しているあらゆる種目の高校生を集めてガイダンスをするみたいな競走部のセレクションに参加、それがきっかけです。

――当時の競走部の様子はいかがでしたか

その当時は、歴史でいうと中村監督っていうワセダの競走部を完全に立て直した人がいた時代。瀬古さんを育て、いまの日本長距離界の父みたいな神様みたいに言われてる偉大な人。その人がちょうど瀬古さんが入学したと同時に監督に就任して、強くなっていくまさに全盛期。とにかく厳しいし、みんなスポーツ刈りできちっとしてたし、表現が正しいかわからないけどいわゆる軍隊式(笑)。そういうのが徹底していた時代でものすごくぴりぴりしてた。でも、強かった。箱根だけじゃなくてインカレでも活躍してるし、とにかく全てにおいてすごい時代に入学したという感じかな。

――やはり、入部された当初はとまどいなどもありましたか

とまどいというか、大学に入れたこと自体がすごくうれしい。やっぱり。あこがれの先輩たちと一緒に練習できたりとか。練習もいきなりすごいものをやらされてたからとまどいとかを感じる間もなくトレーニングについていくのに必死(笑)。死にそうだった、最初は。

――先輩との上下関係も相当あったのではないでしょうか

高田馬場にね、教育学部だから16号館とかに行くんだけど駅から歩いていくでしょ。どんなに先輩が遠くにいても直立不動で「こんにちわ!」、「失礼します!」と言わなきゃいけない。いまはどうなのかわからないけど先輩が遠くにいたらあの学生一人で何を叫んでるんだろっていう恥ずかしさもあるんだけど、でもやっていくうちに慣れていった。後でもし先輩に見つかってたら「お前なんであの時あいさつしなかったんだよ」って必ず文句言われる。ただ、とはいえいま体罰が問題になってるけど手を出すというのは一切ワセダの競走部にはない。しつけの厳しさなんだろうね。

――所沢キャンパスがなかった時代はどの辺りで練習をされていたのですか

東伏見。いまもある野球部のグラウンドとか。あそこがワセダの体育会の一大拠点で、サッカー部もあったし競走部もアメフトもラグビーも確か全部あった。水泳部もあったかな。いまの全日本の平井(伯昌、昭61社卒=東京・早稲田)コーチが同級生だった。

――当時の寮生活や食事について教えてください

寮は木造の平屋で一部屋4人ぐらい入るんだけど二段ベットで先輩が下、後輩が上みたいな感じでプライベート空間はほとんどなくて、タコ部屋とは言わないけど軍隊の宿舎みたいなものだった。食事は賄いの人がいてご飯はどんぶりでスポーツ選手だからいっぱい食べるんだけど、後はみそ汁、揚げ物とかおかずが一品。野菜は毎日キャベツの千切りだけ。一応食べ放題なんだけどそれだけ(笑)。

――まだいまのような科学的な健康管理はされていなかったのですね

ないない。食べなきゃいけないっていうのはわかってたけど、いまの競走部みたいに管理栄養士がいたりっていうのはありえない。

――在学中、特に印象に残っていることは何でしょうか

おかげさまで箱根では4年間で2回優勝させてもらって、往路優勝も2回やって総合優勝2回。それぞれに全部思い出があるけど、一番はやっぱり1年生の時に全く無名の選手だったのにいきなり5区に抜てきされて大東大と順大を抜いて2位に上がった、僕にとってのデビュー戦。あれが一生の中でも自分がメジャーになっていく一つの大きなきっかけになった。

「箱根ファンからしたらつまらないレース」

――次にその箱根についてのお話に移らさせて頂きます。1年生ながらいきなり5区に抜てきされたのはどのような理由からだったのですか

1年生の中では長距離は7人いて、その中に国体チャンピオンとかもいたから高校時代の実績でいうと僕は下から2番目くらい。浪人で入ってきてる同級生もいたけど、みんな超一流の選手だった。でも練習は負けず嫌いなんでどんどんやってた。それで長い距離はわりと得意だったので入ってきたときは下から2番目だったけど夏ぐらいから1年生の中ではトップ3ぐらいになれた。9月ぐらいだったかな、中村監督に呼ばれて上り坂は得意かと聞かれて。僕は箱根の5区を見たことがないから、5区が上りの区間っていうのは知ってるけど上りは得意かと言われてもどんなものかも知らなかった。苦手ですとは言わずに肯定したと思う。「だったらお前一回走って来い」と言われて、試しに走った。そうしたら、その前の年に走った先輩の記録より速かった。それで決まり。

――4年間続けて5区を走られていますが、印象は毎年変わっていくものなのですか

いや、1年目は本当にただ必死に走っただけで、2年目はチームの優勝が懸かっていてトップでタスキをもらったからそれを復路にいかに届けるかという感じ。3年で区間新記録を作った時にはもうどちらかというと上級生だから戦略的に走った。4年も区間賞をとって往路優勝したけどその時もちゃんと戦略的だった。トレーニングもそうだし、5区ってスピードの切り替えが難しい。すごい急なところと緩やかな坂と、最後に下りがある。そこをどう切り替えるかというのはすごく重要な要素なので、そこはやはりスキルがものをいうところ。4年の時は特に。ものすごく向かい風で全く単独で走ってたんだけど、3年の時の記録と2秒しか変わらなかった。あれは向かい風でなかったらまた区間新記録で走れていたと思う。

――4年間で学んだ5区を走るための極意はありますか

あれだけ5区が注目されて山の神とか言われるけど、駅伝で一番大事なことってチームを優勝に導くことなんだよね。そのために大切なことは往路のアンカーだから復路に何秒貯金できるかなんだよ。いくら単独でトップで走ってたって全力を出し切って復路に貯金を1秒でも多くしないと、区間賞だろうが区間新だろうが駄目。だからまず失敗してはいけない、ブレーキなんか絶対やってはいけない。僕なんかはほとんどトップでもらってトップでゴールしてたけど、後ろなんか全く見えないんだけど、とにかく貯金をする。1秒でも多く。だからものすごく自分を追い込んで走っていたかな。

――調整の仕方について伺いたいのですが、毎年箱根の前に集中練習をやるのが恒例になっています。金さんからご覧になって、集中練習の意味はどう考えられていますか

 ワセダの一つの伝統ですね。どんなにスピードがある選手だろうが箱根の20キロという距離をしっかり走れるようにっていう。僕の時代からワセダの集中練習っていうのは20キロっていう距離を絶対に失敗しないような練習を繰り返し繰り返しやる。20キロのタイムトライアルを、毎週のようにやるし。20キロのタイムトライアルが終わった後にさらに10キロ走ったり。一番きついのは20キロをやって、また20キロ走るメニューだったね。ただ40キロ走るんだったらまだ楽だけど、全力で20キロ走った後にまたそのまま20キロ走るから。ビルドアップと言って、まずは全力で20キロ走るでしょ、試合と同じように。それで一回も止まらないんだよ。そのまま給水だけして、ジョギングしてまたスタートする。そんな練習をしてるから20キロが長く感じなかったね。いまはどうなんだろう。結構ハードでそれなりの心構えとか体力がないと故障してしまうような練習だからいまもやってるのかどうかは全然わからないけど、だからワセダは強かった。

――やはり、当時そのような猛練習があったから箱根でも結果を残すことができたのですね

そう思う。

――集中練習は中村監督が就任する以前からあったのですか

わからない。わからないけど、たぶん中村監督の時代だと思うよ。

――中村監督との印象的なエピソードはありますか

いっぱいありすぎて(笑)。後にも先にもああいう強烈な人には出会ったことがないよ。この人は陸上競技の指導に命を懸けていると感じる。「おれは命懸けでやっている」っていう言葉だけじゃなくて本当にそういう人。例えば心臓が悪いのに雨の中何時間も傘もささずに立ち続けて見てるとかね。迫力とかそういうのも含めて、あんな人はいまの時代なかなかいないよ。命懸けでやるっていうのはこういう事なんだなって学んだし、あの人の存在そのものがそうだったかな。命懸けで僕らを指導してくれたということに対する思いをいま引き継いで僕はやってるんだと思うね。これは理屈ではないというか、人はいずれ死んでいくんだけど陸上競技というスポーツの一つの活動の中に脈々と息づいている。だから僕たちは中村学校と呼ばれてた(笑)。昔、陸軍中野学校っていうスパイを育てる精鋭の学校があったんだけど、それに例えられて中村学校って言われてたね、当時は。

――2年生時に箱根で優勝した時は30年ぶりの完全優勝ということで、反響もすごかったのではないですか

もちろんすごい。メディアもそうだったし。ただ、いまみたいに日本テレビに出たりはしないよ、絶対笑。そういうことはないけど総長に呼ばれて食事会があったりとか、普通では考えられないことがいっぱいあったよね。

――完全優勝を成し遂げられた要因としては何が一番大きかったですか

僕らが入るちょっと前から瀬古さんより下に全国トップの選手が入っていたでしょ。チームが充実したし、トレーニングもよくできた。でも人数は決して多くなかった。当時長距離の部員は30人くらいだったかな。少数精鋭。1年目は2位で日体大にぶっちぎられたけど順調に力は付けていた。だから2年の時の優勝は30年ぶりって騒がれてるけど必然だったわけ。そんなに驚くことではなかった。

――後ろに10分ほどの大差をつけられたのですよね

だってほとんど繰り上げだよ(笑)?20校中18校が繰り上げ。箱根ファンからしたらつまんないレースだっただろうね。ワセダファンからしたら楽しいけど。野球でいったらコールドの30対0みたいなもの。

――箱根が選手の今後のキャリアに与える影響をどのように考えられていますか

箱根を走ることがスピードにつながらないとは思わない。箱根っていまスピード化してるから。例えば駒大の村山(謙太)だってもう全然5000メートルも1万メートルも強いわけだから、それは思わないよ。ただやっぱり有名になってしまうのでその弊害はあるかな。スポーツ選手って、特に個人競技の選手は小さい頃からあこがれを抱いてああいう選手になりたいって考える。とにかく自己顕示欲なわけ。それはもちろん陸上だったらオリンピックでメダルを獲るようなところが最高到達点なのかもしれないけど、そのずーっと手前の箱根の段階でその自己顕示欲が満たされてしまう。なんで毎日こんな苦しいトレーニングをして色んなものを犠牲にしてやるかっていうのは、やっぱり欲だね。よく強くなりたいっていうけど、強くなったって誰にも評価されなかったら何もない。だからそれはきれい事であって、有名になりたいんだよ。

――そこに弊害があるのですね

自己顕示欲というのはモチベーションの一番大きな部分でベースになるものだから、それが満たされてしまったらモチベーションがなくなる。「箱根で区間賞をとってあんなに注目されたのに、実業団ではちょっとした大会で優勝しても全然駄目じゃん」みたいになっちゃう(笑)。でも、それはお前がわかってないだけだって言いたい。だって箱根の区間賞なんて20校でたら20人の中の1番だけ。強い選手がその区間にいなかったら当然とれるものだし。僕は学生時代そう思ってたよ。当時は15校だから区間賞とっても15人の中で1番になってるだけだし、エースは2区に行ってるわけだから別に区間賞をとったって不思議でもなんでもない。僕の仕事は区間賞を獲ることじゃなくて2位以下の学校に何分離すかということだったから。

――それではエースが集まる2区を走りたいという思いはなかったのですか

それはたぶん一番大きなエピソードになるかな。中村監督が勇退された後に鈴木重晴(昭31商卒=秋田南)さんが監督になった。鈴木さんは練習にもあんまり口出ししないし学生主体でやっていたんだけど、僕が4年になった時に、3年で優勝してたでしょ、4年の時も優勝できるようなメンバーは残っていたから3連覇を目指していた。その時にはインカレで勝ったりとか学生としては負けない選手になってたので鈴木監督にちょっとお話がありますって言って、「やっぱり花の2区だからやってみたいと思うんですけど監督はどう思われますか」と聞いたのよ。力からしたら確かに4年生の中でもインカレで30キロとかやってたから十分だったし、スピードはそんなにないかもしれないけど2区は結構アップダウンがあるからあそこだったら走れるなと思って。2区で走る自信もありますと。そしたら鈴木監督は即答して、「わかった。お前の気持ちはよくわかった。でもお前は2区を走ったら順大に何分勝てるのか」と聞かれた。相手は順大なんだよね。もう勝つ負けるじゃなくて何分離せるかっていう(笑)。そうすると順大は2区のエースに勝つ自信はあるけどやっぱりいけても「1分ですかね、下手すると30秒くらいです」と言った。それが正直なところだから。そうしたら、「じゃあお前5区なら何分いけるんだ」と聞いてくるんだよ。そりゃあもう5区はスペシャリストだから「少なく見積もっても3分、上手くいけば5分勝てます」と。「ならお前、チームのために5区だろう」って(笑)。それで、「わかりました」と言って、僕も5区の基本的な役割はわかっているのでそれ以上は何も言わない。わかりました、やりますと言わざるをえなかった。

「初めて見た人にも素晴らしさを伝える」

今でも毎年、多くの大会に出場する金氏

――早大を卒業後、陸上部がなかったリクルートに入社されたのはどのような理由からですか

一番大きいのは中村監督が、僕らが4年の時に亡くなったこと。川で釣りをしていて水死してしまって…。それで我々にとっての指導者っていうのは中村監督以上の人はいないわけだから、他の実業団に行って他の指導者から指導を受けるというのが自分の中ではできなかった。比較してしまうから。それが一つ。自分の中で独立心を持って生きたいからそういうのを受け入れてくれる会社もいいなと考えていました。新しいことが好きなんだよね。

――その後はマラソンをはじめられましたが、大学卒業後の競技生活を振り返っていかがですか

マラソンだけじゃなくてスポーツ選手はみんな同じだろうな、これは。自分が物心ついた時から競技をやり始めて常に上を目指すのは当然のこと。「長距離選手にとっての最高峰って何なんだろう」って考えた時に、やっぱり自分の力がどこまであるか試してみたいでしょ。そうなった時に陸上競技の場合、オリンピックのマラソンなんだよね。頂点っていうのは。それ以上のものはない。だからそこにチャレンジしてみたかったんだよね。

――リクルートに入社してからは指導者の力を全く借りずに、自分の力だけで練習していたのですか

本当に一人だった。陸上部がなかったから会社に入ってマラソンをやりたいというふうに言ってそれは許可されたんだけど、会社も陸上部があるわけじゃやないからとりあえず人事部に配属されて、事務仕事なんかをしながら夕方にちょっと行ってきますという感じで練習をしてたんだよね。いまの川内優輝(埼玉県庁)みたいな。川内よりも働いてたかな(笑)。朝練をやって9時に出勤してたから。それで夕方に2時間ぐらい皇居で練習して帰ってきたら残業もすごいあった。

――現在は川内選手が公務員ランナーとして騒がれていますが、当時の金さんもそのような競技生活を送っていたのですね

そうだね。ずっとそうやっていたわけじゃないけど。途中からは会社が少しずつ、もっと練習に専念できるようにした方がいいと言ってくれて。自分から条件を出したんじゃなくて、実績を出すことで環境を獲得していったんだよね。箱根の選手だから僕に自由な時間と経費をくださいとは言ってない。リクルートに入ってリクルートの名前で走って成績を上げてから、ちゃんとそれが伝わるようになった。

――別府大分マラソン3位という成績も残されていますね

入社して1年目の最後の2月。そういう小さい大会で少しずつ成績を挙げて、ちゃんもメディア露出もしていって、満を持して11月か12月だったかな。本格的にマラソンを目指したいと。もうちょっと仕事を加減してほしいと言って(笑)。それで合宿にも行かせてもらったりとか、それも全くの一人だったけど、残業をなくしてもらって午後2時にはあがれるようにしてもらったり。ちゃんとマラソンの練習をした。それで別府のスタートラインに立って、3位に入って。途中トップに立ったから会社の人たちが大騒ぎになった。それまでテレビ中継はなかったんだけど、初めてテレビ中継で会社の名前が何時間もずっと出てるわけだから。会社では「金」っていう社員がマラソンをやっているという認識はあったけど、それ以上の期待はしてなかった。でもそういう状態になってしまったので、そこからもっと本格的に陸上をやりましょうってことで女子のチームを作ったんだよね。今後はチームを作るなら女子の方が長距離は良さそうだから女子のチームを作っていきましょうと言って、女子の指導のトップである市立船橋高校の先生をやってた小出義雄監督を呼んできてチームを作った。それで90年代の女子の黄金時代を築いたんだよ。高橋尚子さん(シドニー五輪女子マラソン金メダリスト)とかね。

――現役引退後はニッポンランナーズの代表として活躍されています。そこまでの経緯を教えてください

現役引退後は28歳まで選手をやって、28の時に有森裕子がバルセロナオリンピックで銀メダルを取った時のコーチをやって、そこからはリクルートの指導者。コーチ・監督を10年やってそこからニッポンランナーズを立ち上げた。2001年から計画をしていて、もうリクルートが休部を決めて、次はどうするんだと言っていた時。普通は選手と一緒に移籍をしたりするんだけど、そんな時に「お前はよくやった。でも役目を終えた」と言われたの(笑)。会社にとってはそうなんだよ、お金を出しているわけだから。僕はリクルートに15年間いたけど、自分がもらったわけじゃないにしても会社はチームのために10億以上お金を使っているわけで。スポーツっていうのは一つの文化だから、未来永劫続くかって言われると会社がやっている以上続かない。会社は金儲けし続けなきゃいけないんだから、スポーツ文化みたいなのは利用するときは利用するけど役目が終わったらそれで終わり。評価をされてないわけじゃないけど、役目が終わったっていう言われ方をしたときに「あっなるほど」と。これはお金を出してくれるのかもしれないけど企業っていうところに軸足を置いたらスポーツは一つの文化としての継続は無理だと思った。だからクラブチームにしようと思ったんだよね。

――それでは、新しいチャレンジとしてクラブチームをつくったのですね

そう。もちろんお金もないし強い選手がいるわけでもないけど、これからのスポーツは市民が支えるかたちになっていくだろうと思った。陸上界にそういうのがなかったから先駆けとして作ってNPO化して。僕のニッポンランナーズの目標は、もちろんそこでオリンピック選手を育てたいと思う気持ちもあるけど、Jリーグの100年構想のように自分が死んでもずっと続いていく仕組みにすることだった。

――そのような取り組みの成果もあって、いまでは市民ランナーの数はどんどん増えていますね。

そうだね。その時は実業団の監督までやった人が市民ランナーを教えたのは初めてのことで、それまでなかったことだから。もちろん我々もコーチングのプロだし、これまで競技選手にしか教えていなかったノウハウを市民ランナーに生かすという仕組みを作った。しかも、逆に実業団までいった選手にとってはセカンドキャリアの場になるから。引退したら自分は一切競技から足を洗うと思うんじゃなくて、市民ランナーを教えるっていうビジネスモデルを僕は作ってあげたので、それをみんなが踏襲してるからそれは良かったなと思います。

――金さんが教えるランニングの理論というのは現役時代に培った経験からきているのですか

もちろん。走るって誰でもやることで、難しいことでもなんでもないんだけど、やっぱりトップ選手の走りっていうのはバイオメカニクスに基づいたきちっとしたものがあるわけで。短距離なんかはよく研究されてるんだけど長距離はなかなかそういうのがない、しかし正しい走りっていうのはある。それがいままで言語化されてなかった。誰もやってなかった。それをただ僕は言語化しただけ。

――そういう時代に培っていたものがいま本になっているのですね

まあ僕は解説者として伝える仕事もしているから、言語化したりわかりやすく伝えたりすることっていうのはわりと得意なのかな。そこに、市民ランナーの人たちがいてニーズもあったわけだし、うまく合致したんだろうね。

――マラソンを通して市民の方に伝えたいことはありますか

いまも実際に走ってるんだけど、マラソンっていうよりはランニング。陸上の選手はもちろん走るんだけど、スポーツをやったことある人はみんなトレーニングで走ったりする。僕が思うのはなぜいまこんなにランニングがブームになっているかということ。人間って本来、体を動かす動物なんだよ。走るっていう単純な行為をやることで本来持っているはずの健康を得られるし、メタボを改善できたりするけど、それだけじゃない。人間って本来昔から農業をやろうが、狩猟をやろうが自分の飯は自分で獲ってくるから体を動かしていたんだよね。それなのに、いまは動かないで飯を食えるようにはなった。それでストレスを感じて病気になる人がいっぱいいるわけ。それを一番簡単に、単純に救えるのが僕はランニングだと思っている。走るっていうことにはすごい力があるからね。

――現在は解説者としても活躍されています。大学長距離界をどのようにご覧になっていますか

レベルは上がったよね、長距離界は。箱根っていう関東のいちローカル大会でしかないものがこれだけ全国的に認知度が高くなっていって。長距離を目指す子供を増やしたという意味においてはすごく貢献したけど、さっき言ったみたいにモチベーションの問題がある。競技選手の最終目標って本人が決めればいいんだけど、やっぱり箱根の大学4年で終わってしまうのはいいとは思わない。みんながみんなやる必要はないけど、やっぱりもっと一つの競技をやって頂点を目指すチャレンジっていうのをやるべき人がやった方がいいと思う。一方で箱根は20校に加えていまチャレンジをしている学校があって、当然箱根本戦にも出場できない学校もいっぱいある。そこに向かって述べ何千人っていう学生が一生懸命毎日トレーニングしてて、人間教育としてはすごくいいものだと思う。みんな真面目に毎日コツコツ一つの非常に明確な目標に向かってやってるから。いま多様性とか個性って色々言われてるけど、その生き方もいいんだけどこういうみんなが知っているわかりやすい目標に向かって4年間切磋琢磨するっていうのも学生の一つの目標としては本当にすばらしいと思うね。

――箱根が注目されることでテレビの視聴者も増えていると思うのですが解説をする上で心がけているのはどんなことですか

僕が解説者としていつも考えていることは五輪であろうが、箱根であろうが全部同じ。走っている選手たちが主役であって、すごいことをやっている。それをきょう初めてチャンネルをひねった人にそのすばらしさのわかりづらいところをわかりやすく伝える。だって、ただ走っているだけだから(笑)。それだけであまり大げさにはしない。自分が素直にこれすごいなと思ったら、「いまの走りはすごいです」ってはっきり言いたいからね。

――解説者として活動をする上で一番印象に残っていることはなんですか

うーん、それはネガティブな方かなあ。途中棄権あったでしょ。それをなんども第一発見者になってるんだよ。移動中継車に乗ってるからね。法大に徳本(一善)っていう選手がいて、彼が2区で途中棄権する前にも走りを見たらわかるからこれはやばいなあと思っていたら案の定止まってしまって…。あれはショッキングだったね。もう目の前で見てたから。その時はNHKのラジオの仕事だったんだけど、日本テレビの中継車のバイクよりも僕の方がわかっていたので、やばいからここに付きましょうと言ったの。それで日本テレビの人はそこにいなかったからラジオの方が第一報で、「これは大変な事になりました、ひょっとすると肉離れで止まってしまうかもしれません」と。そしたらそのラジオ放送を聞いた日テレの人たちが大あわてで来て(笑)。だからテレビではタイムラグがあったんだけど、僕はリアルタイムで見ることになったんだよね。

――そういう苦しい場面も伝えなければいけないところは、解説者としては辛い立場ですね

そうだね。そういうネガティブな時は難しくて、これは選手が無理して走ったからいけなかったんですよとは言えないから。起こった事実をしっかり伝える。それと解説者の仕事はそういうことに加えて、先の予測をしなきゃいけない。このレースがどうなるのか、この選手は今後の将来どうなっていくのだろうか。そういう目線も必要なので、そのへんも最大限ねぎらって、「ここで無理して足を引きずったまま行ったら肉離れがひどくなるから、選手の将来を考えたらここで止めておいて良かったと思います」って言うぐらいのフォローはしてあげないといけないね。

――大先輩とおっしゃっていた瀬古さんも解説者として活躍されていますが、同じ仕事をするようになって思うことはありますか

それは光栄ですよ。光栄だけど、昔は雲の上の神様みたいな存在でも、いまは同等まではいかないけど瀬古さんが考えていることも僕はよくわかるから。だから解説者としては瀬古さんのフォロー役。出雲全日本選抜駅伝とかね。瀬古さんっていう人のすばらしさを僕は知ってて、ただちょっと表現が特殊なところはあるので瀬古さんが言い切れなかったことを僕がもう一回言い直してあげるとか、そういう役割。瀬古さんはもう長嶋茂雄さん(現読売巨人終身名誉監督)と一緒だから。感覚の人だから、その感覚がものすごい高いレベルなんだよ。陸上をよく知っている人が瀬古さんが時々言うことを聞くと、「うわーすごいところ見てるなって」いうのは感じるんだよ。

創部100周年にあたり

記念の色紙には「あなたが老いたから走るのやめたんじゃない、走るのをやめたから老いたんだ」という言葉を記した

――ことし、早大競走部が100周年を迎えることに関して思うことはありますか

100年っていうと日本のスポーツの歴史に近いよね。オリンピックも1896年が最初でわりと近い歴史を刻んでいる。だから競走部っていうのはこれからもリーダーであるべきだろうし、これからも日本のスポーツを引っ張っていかなければいかないんだろうなというぐらいの重みを感じますね。だから僕は競走部の後輩なんかには、これだけの伝統がある競走部の一員として4年間を過ごすだけでもすごいことなんだからいい加減な行動をするなってよく言ってる(笑)。自分だけじゃなくて全部周りも背負ってるわけだから。ワセダにも色々な人がいるけど少なくともスポーツをやっていた人は社会の模範であるべきだと思うからきちっと襟を正さなければいけないよね。

――金さんにとっての早大競走部とはどのような存在ですか

自分の人生の中でもそこで大きな転換期があったし、いまは練習を見ているわけでもないし直接関わってはいないけど、生みの親と別に育ての親があるとしたら僕を育ててくれたチームとして切っても切り離せない。だからそういう意味では後輩たちにもずっとリーダーであり続けてほしい。いまは文武両道が大事って言われてるけど、僕はただ勉強して足が速いっていうだけでは文武両道だとは思わない。みんな社会人になったら社会をどう良く変えていくかが大事であって、それを誰がぐいぐい引っ張っていく役目になれるか。それは役割分担だからみんながやる必要はないし、言われた事をやる仕事が悪いわけじゃないけど、誰かが犠牲も顧みず引っ張っていかないと社会って変わっていかない。そういうのをやるのはスポーツの人材だと思う。スポーツによって培ってきたバイタリティがあるから。記録にチャレンジするとか箱根優勝にチャレンジするとか普通に学生生活を送るだけでは体験できないことをいっぱい体験してるわけだから。挫折もあるし。スポーツをやっているといいことばかりではない。これはすごい大切なことで、失敗することもいい経験になってる。

――指導者として、解説者として今後のビジョンを教えてください

ランニング文化をどんどん普及させている役割なので、それをこのままやり続けるのかな。

――金さんにとって、一生を懸けてまで走り続ける意味とはなんですか

一言で言うと、それだけ走ることとかマラソンがすごく価値のあるものだと思ってるから。色んな意味で。世の中を変えたり、一人の人を幸せにしたり。それを仕事にできてること自体がすごく幸せに感じるね。

――現在の競走部長距離ブロックに対してどのような印象をお持ちですか

渡辺(康幸駅伝監督、平8人卒・千葉=市船橋)次第だね。選手は毎年色んな選手が入ってきて何人か高校でトップクラスの選手もいるわけだから。渡辺が駄目っていうことじゃなくて彼はいま長距離の指導者として何年もやってきているから後は彼の成長、渡辺駅伝監督の成長に期待したいね。彼がだんだんカリスマと呼ばれるようになることで、再び東洋大にも日体大にも負けないっていう黄金時代が来るんじゃないかな。だからOBはみんな見守ってるよ(笑)。あえて口出ししないの。何か助けを求められたらいつでも助けてあげるけど。渡辺よりもキャリアを持った人はいっぱいいるから僕らが「お前、こういう練習をやれ」と言ったら、彼は何もできなくなっちゃうから。そういうことは絶対に言わない。それは全員のOBに共通してる。任せた以上はしっかりやれと。何か必要だったらいつでも助けてやるから、信念を持ってやれって言ってる。心から応援はしてるんだよ。でも口出しはしない。

――最後になりますが、早大OBとして現役で競技を続けている後輩にメッセージをお願いします

プライドはみんなあるだろうな、きっと。伝統ある競走部の一員だというプライドはあるだろうから、100年という歴史の上に君たちがいま競技をやっているんだということに感謝をして闘ってほしい。もう故人っていっぱいいるからね。織田幹雄先生(昭6商卒)からはじまる日本スポーツ界の歴史そのものだから。日本初の金メダリストがOBにいるんだという自覚を持って競技を続けていってほしい。

――ありがとうございました!

(取材・編集 中澤佑輔、写真 金氏提供写真)