【連載】箱根事後特集『繋』第7回 太田直希

駅伝

 1万メートル27分台の記録を引っ提げ、太田直希(スポ4=静岡・浜松日体)は4年連続で東京箱根間往復大学駅伝(箱根)に出場した。結果は3区区間6位。持ち前の堅実さを発揮し、大学でのレースを終えた。チームが出場した駅伝には4年時の全日本大学駅伝対校選手権(全日本)以外全て出走し、安定感ある走りで早大を支えた太田。今後は戦いの場を実業団に移す。シード落ちに終わった4年目の箱根、そしてこれまでの競技生活を振り返って今、思うこととは。

※この取材は1月30日にリモートで行われたものです。

「メンタルをいまいち切り替えられなかった」

3区を走る太田(©︎関東学連/月刊陸上競技)

――今回の箱根で3区を走ることが決まったのはいつでしたか

 箱根の2週間前くらいに、可能性があるのが3区、7区、9区だと監督から言われていて、1週間前くらいの練習の出来などで、「3区で行くぞ」と言われました。自分が往路を走らないといけないというところもありますし、単独走がある程度できるというところも加味されたのではないかなと思います。

――改めて箱根前の調子はいかがでしたか

 みんなが集中練習をやっているときに自分は別メニューでやっていたのですが、その走り込みの時期の調子では、ある程度は走れるかなという具合までは来ていました。でも1週間前くらいのポイント練習で、あまり自分の思っていたような良い感覚で走れなくて。そこで神経質になりすぎて不安に思ってしまって、本当に走れるかなという思いが自分の中で湧いてきました。調子自体どうだったかと言われると、体はある程度は走れる状態だったと思うのですが、メンタルをいまいち切り替えられなかったです。それが今回の自分の課題だったかなと思っています。

――大会時の調子では、何割くらいの状態でスタートしましたか

 大体マックスから7、8割くらいだったと思います。まあまあという感じでした。

――1区、2区の走りはどのように見ていましたか

 あまり気にしないようにはしていたのですが、1区がスタートしてから途中くらいまで井川(龍人、スポ3=熊本・九州学院)があまり良くないという話を付き添いからもらっていました。想定外ではあったのですが、挽回するしかないという気持ちでいました。

――1区の井川選手の調子が良くない中で、プレッシャーはありましたか

 1区、2区とあまり良い流れに乗れていなかったので、自分が前とのタイム差をどれだけ縮めるかとか、自分に渡った時点でシード圏外にいたので、シード権をまず確保するためにという考えを持って走っていました。でもそこで「自分が何とかしないといけない」とかは深く考えすぎずに走れたので、程よいプレッシャーだったと思っています。

――走る前にはどのようなレースプランを考えていましたか

 監督から、「3区は下り基調だから、(他の選手は)最初の入りの5キロとか10キロとかは突っ込んで入ると思うけど、お前はそんなに突っ込まなくていい」と言われていました。10キロを28分40秒から28分50秒くらいのタイムで通過して、海岸線に出てから勝負と言われていたので、走る前はそういうレースプランを立てていました。

――実際走ってみてその通りにいきましたか

 最初の10キロは想定より速く、28分30秒くらいで通過できたのですが、そこからあまり伸びなかったのは、やっぱり故障の影響もあったのかなとは思っています。

――後半の10キロからはほぼ単独走でしたか

 伊豫田(達弥、順大)に抜かれてからはほぼ単独走でした。前はあまり人がいないという感じでした。

――3区のコースを振り返っていかがでしたか。富士山は見えましたか

 必死だったので富士山はあまり記憶にないですが(笑)、だいぶ長い直線だったので、いつ終わるのかなというような、終わりが見えない感じでしたね。

――下り基調という話がありましたが、比較的楽なコースだったのでしょうか

 そうですね、4年間走った中では一番楽でした。監督にはずっと上りは苦手と言っていたのですが、上りに使われ続けて、やっと自分の適性のあるコースを走らせてもらえました。

――上りは苦手だったのですね

 そうです。上りは無理だからやめてほしいとずっと言っていたら、ずっと上りでした(笑)。

――ご自身ではどのようなコースが一番適性があると考えていたのですか

 でも今回の3区のようなコースが一番適性があるような気がします。アップダウンがすごくつらいので。

――4区以降の走りはどのように見ていましたか

 4区、5区と1年生を2人並べたのでどうなるかなと思っていたのですが、2人とも本当によく走ってくれたなと思っています。特に5区を走った大志(伊藤、スポ1=長野・佐久長聖)なんかは未知数なところもあったのですが、それでも区間11番で本当によく耐えてくれたなと思っています。

――改めて箱根を振り返って、ご自身の走りをどのように感じていますか

 みんなの期待に応えられるような走りはできなかったのですが、ケガ明けからはある程度走れたのかなと思っています。でももっともっと力が必要ですし、やっぱりそういう部分のメンタルやゲームチェンジャーがこのチームにいなかったというのが、この結果になった最大の要因かなと思っています。自分の走りをもっと磨いていたらまた別の結果になったと思うので、全然満足はしていないです。この結果になってしまって後輩には本当に申し訳ないですが、やっぱり自分もこの先があるので、この経験をしっかり生かしていきたいなと思っています。

――チーム全体の走りや結果についてはどう感じていましたか

 チーム全体としてはでこぼこでつながらない駅伝になってしまいました。シードを落としたことや区間1桁で走った選手もそこまでいないというのは、やはりゲームチェンジャーや流れを完全に変えるような役割を僕らが果たすべきだったのに、できなかったのが要因かなと思っています。

――周りの人からはどんな声をかけられましたか

 身近な人だとみんな「4年間お疲れさま」と言ってもらえて、労いの言葉が多かったです。でも中には「なんでそんなところを走っているんだ」というようなことを言われたという記事が出ていたと思うのですが、あれは実際そうなので。そういう厳しい言葉をかけられる方がいらっしゃるというのはその通りだと思いますし、僕らももっと頑張らないとなとは思っています。

――箱根後すぐのインタビューでは「何がいけなかったのだろう」と口にしていましたが、今はその思いについてどう感じますか

 やっぱり集中練習の段階からチームが一つにまとまっていなくて、一つのチームとして練習ができていなかったところと、後は個人個人の練習量が足りていなかったり、もっと競争を増やしていかないと成長できなかったと思います。今考えてみると、集中練習の段階で全員が一つのチームとして走れていなかったのが、この結果になった原因かなとは思っています。


「不完全燃焼に終わったシーズン」

――この1年を振り返って、どんなシーズンでしたか

 シーズンとしては、あまりうまくいかなかったなとは思っています。今考えれば立川の一番初めの大会(日本学生ハーフマラソン選手権)で、全然調子が良くないまま出たのですが、上位争いが一応できたことで、ちゃんと練習ができていたらある程度走れるのかなと手応えがつかめました。今後の学びにしていきたいです。こういうシーズンもありましたが、やっぱり自分でよく考えて、自分が大きな目標にしている大会から逆算して練習を組んでというように、しっかり計画性を持ってやることが大事なのかなと思っています。

――今シーズンだと大きな大会、合わせたい大会はどれでしたか

 3月の立川と4月の日体大(日本学連1万メートル記録会)はユニバーシアード(ワールドユニバーシティゲームズ)がかかっていたので、そこは合わせたいなと思っていました。何なら5月の関カレ(関東学生対校選手権)も狙っていましたし、トラックシーズンで欲張りすぎたところもあったのかなと今の時点では思っています。

――駅伝はそれぞれの大会に合わせようとしていたのですか

 駅伝に関しては準備期間がある程度あるので、調子を合わせて1回リセットして、というようにやろうと思っていました。


「3年目が一番印象深かった」

2区中谷からタスキを受け取る太田(左)(©︎関東学連/月刊陸上競技)

――4年間を振り返って、今どのような思いが一番大きいですか

 つらいことの方がだいぶ多かったですが、いい仲間に恵まれて自分もここまで成長しましたし、ここまで楽しく陸上できたかなと思っています。

――楽しかったことと苦しかったこと、大きいのはどちらでしょうか

 つらいことですね。8割くらいはつらいことです。

――それはやはり練習ですか

 練習もそうですし、競走部だと1年生は当番とか守らないといけないルールとかがありますし、全部が全部自由ではなかったので、8割くらいはつらいことでした。

――4年間を振り返って印象深かった年というと

 年でいうとやっぱり3年目ですね。3年目が一番楽しかったですし、印象深かったです。

――競走部での4年間を1年ずつ振り返るといかがですか

 1年目は何もできなかったのですが経験できた年で、2年目はスランプ、3年目は成長できて、4年目はあんまり、でした。4年目は頑張ろうとしすぎてダメだったという感じです。

――今シーズン練習自体は積めていたと思うのですが、大会で思うような結果が残せなかったのはその部分ではなく、メンタル面だったということでしょうか

 トラックシーズンに関しては、合わせようと欲張りすぎた結果、あまり練習を積めずに次の大会というような形になってしまいました。しかも全部長い距離だったので、それがうまく結果が出なかった原因かなと思っています。駅伝シーズンに関しては練習はある程度できていたのですが、メンタルとか、ピーキングというか調子を合わせる能力がいまいちだったかなと思っています。

――ピーキングは難しいですよね

 難しいです。今も全然できないです。何が正解なのか分からないです。

――一番はまったと感じた大会は何でしたか

 はまったなと思う大会は、3年の全日本(4区区間2位、区間新記録)ですね。ある程度練習もうまくできて、本番に距離を落としつつ調整できたのはその大会だと思います。

――3年時の日本選手権(1万メートル27分55秒59)はどうでしたか

 日本選手権は、走れちゃったという感じですね。全然調子もよくなかったので、走れちゃったという感じです。

――3年目から4年目にかけて、チーム内でもキーマンになったのではないでしょうか。ご自身でその成長をどう捉えていますか

 3年目に競技自体がかなりうまくいって、タイムもかなり伸びて結構コロコロいったので、その辺りから、チームのための行動とか、自分の発言一つが何かを変えるような、そんなふうに思っていました。4年目になって、人に強く当たるような役割を自分が持っていたと思うので、そういうところは意識してはいました。

――上級生になって引っ張るだけでなく、競技面で成績が上がったのも一つの要因なのですか

 そうですね、少しは自信を持てたかなと思うので。いい結果が自分の自信になったかなと思います。

――大会後のインタビューではよく「満足いってなくて」と振り返っている印象でしたが、満足がいかず印象に残っている試合は何ですか

 悪かったのは、4年の関カレとかですかね。走れると思っていたのですが全然ダメで、何をしていいのか分からないみたいな感じでした。あとは2年の5000メートルで、どれだけ頑張っても14分40秒くらいでしか走れない時があって。そこは結構印象が強いですね。

――4年時の関カレが大きな存在なのですね

 そうですね、練習もそこそこできていたので入賞ラインでは戦えるかなと思っていたのですが、早い段階でつらくなってしまったというのが本当に印象に残っていて。悪い大会として残っています。

――落ち込んだりはしましたか

 少しは落ち込みましたが、その後すぐに教育実習で高校に行ったのが自分の中でいい転機ではないですが、そこでいろいろ学び直せたというか、初心に戻れました。うまく教育実習が救ってくれたような部分はあったかなと思います。

――2年のスランプも印象深いのですね

 そうですね。競技人生で、やっていてずっとあんな状態に陥ったことがなかったので。初めてスランプになりました。

――それぞれ1年ずつ印象が違って、濃い4年ですね

 そうですね。でこぼこな4年でした。

――大学での競技生活で後悔が残っていることはありますか

 後悔が残っているとしたら、4年目の欲張った大会とかですね。あれをもっと冷静に見て、ちゃんと練習を積めていたらまた違った結果が出たのではないかなと思っています。

――選手によっては「ないです」と言われることもあるのですが、後悔はあるのですね

 多分ない人は嘘ですよ(笑)。そんなことはないです。ずっと1位を取っていたらあるかもしれないですが。そんな人はいないです。

――早大を選んだ理由に「勉強も陸上もトップレベル」ということがあったと思いますが、実際に入ってそれを感じた部分はありますか

 勉強の面に関しては、GPAや、WAPという制度があって、勉強もしっかりやらないといけないのかなと痛感しました。陸上ではやっぱり全カレトラック優勝(2020年日本学生対校選手権男子トラック優勝)があって。やっぱり1位になるのは大変だと思うので、このチームは強いなと本当に感じました。

――早稲田の環境についてはどう思いますか

 良かったなと感じています。特に僕らは同期が強かったので、そこは他の大学よりも恵まれた環境というか。ずっと上に誰かがいるという中で競技をやらせてもらえたのは、すごくいい経験だったなと思います。

――同期の存在についてはいかがですか

 自分はずっと追いかける立場にあって、そういう強い選手の背中を追いかけ続けていい結果が出始めて、いい方向に進んだので、本当にありがたいというか。ずっと目標にあった存在なので、良かったなと思います。

――チームに上の存在がいるといいですね

 そうですね。ずっと追えるので、見えない背中を追うよりはいいかなと思います。

――大学に入って、ここが成長したと思う部分はありますか

 考える力は、練習に関しては高校に比べてはるかに養われたと思います。高校の時も結構「考えろ」とは言われていて、練習面も行動面も考えていたつもりではありました。練習に関しては、高校よりも自分の調子などに全て合わせてやれる練習方式だったので、競技に関しては大学の方が伸びたなと思います。でもやっぱり高校の頃の経験も人間性の部分で生きたこともあったので、よくつながっているのかなとも思います。


「次は日本代表や日の丸を背負うことも考えている」

――太田選手にとって走るのは楽しいですか、きついと感じますか

 総じていえばきついですよ。本当に。練習自体も全然きついですし。でもやっぱり結果が出る時が一番達成感を感じるので、その一つに向かって練習している感じですね。

――長距離をやっていて魅力に感じる部分はどこなのですか

 走るのは僕も嫌いですし、つらいことなのですが、やっぱり自己ベストが出たり大会で勝ったり、達成感を感じられるのがすごく大きいことかなと思います。走るのは全然、嫌いです(笑)。

――実業団まで続けるとなると、かなりレベルが高くないとできないと思います。社会人でも続けようと思った時期はいつでしたか

 大学3年の結果が出始めたくらいですね。そこでもしかしたら…という感じでした。それまでは分からないなと。でもどの年代もそんな感じのことを言っていて、中学、高校、大学で陸上やめるかもしれないと。ずっとそれを考え続けて、結局陸上をやり続けていました。結局陸上で人生を組み立てましたけど、これで良かったのかなあという感じです。

――中学生の時から考えていたのですか

 そうです。ずっと考えていました。

――それでもそれぞれで続けようというのは

 意外と全部結果が出ちゃったからです。全部そうです(笑)。

――競技から離れたいと思ったことはありますか

 ありますね。それこそ結果が出なかったときは何度もやめたいと思いますね。

――きついなと思うタイミングは、どうやって自分を奮い立たせているのですか

 これ終わったらコーラが飲めるとか、ここで振り絞ったらご褒美が待っている、じゃないですが。3年目のトラックゲームズは、ラスト200メートルで30秒が切れないと28分20秒が切れないと思って死ぬ気で走ったのですが、その時は「あと200で終わりなんだから脚が取れてもいい」と思いながら走っていました。なので「残りどれくらいだ」みたいな感じで思っています。それが長ければ長いほど調子が悪いということなのですが(笑)。

――ラストいくつだと考えるのが早いと良くないと

 そうです。あれ、まだこんななのにきついぞ、みたいな(笑)。そんな感じです。

――自分のために走れるのはすごいことだと思います

 気合です本当に。ここまで来たら気合だと思います。でも他の人がきつそうな顔をしているのを見ると、元気が出ますね。こいつもきついじゃんみたいな感じで。そんなことを毎日やっています(笑)。

――最後に今後について伺います。現在の練習はどのように行っているのですか

 今は一人でジョグとかしていますね。ポイントはあまりやってないのですが、休める期間だと思って、そこまで考えすぎずにやっています。

――今の思いや実業団での目標をお聞かせください

 大学4年間で経験したことは次の競技にも生きてくると思うので、次のカテゴリーに入ったら、日本代表などを目標にしていかないとトップレベルでは戦えないと思っています。次は日本代表や日の丸を背負うことも考えています。幸い世界大会も近い時期にあったり、パリ五輪もあったりと続いていくので、そういうところを一つ一つ目標にやっていきたいなと思います。

――ありがとうございました!

(取材・編集 朝岡里奈、臼井恭香)

◆太田直希(おおた・なおき)

1999(平11)年10月13日生まれ。171センチ、54キロ。静岡・浜松日体高出身。スポーツ科学部4年。第98回箱根3区1時間2分23秒(区間6位)。自己ベスト:5000メートル13分56秒48。1万メートル27分55秒59。早起きが得意で、学生時代に寝坊することはほとんどなかったという太田選手。起きるコツは「枕の下に携帯を入れて寝る」ことだそう。バイブの音がよく聞こえて目が覚めるんだそうです!