【連載】箱根事後特集『不撓不屈』第11回 武士文哉主務

駅伝

 選手10名に加え、最後は武士文哉主務(文4=群馬・高崎) にお話を伺った。選手として入部し、2年の夏からはマネジャーに転向。4年時には主務として誰よりも選手と近く、広い視野、熱いパッションでチームを鼓舞した。そんな武士の目に今回の箱根はどう映ったのか。また後半部分では、競走部での自身の4年間を振り返っていただいた。

※この取材は1月15日にリモートで行われたものです。

主務が見た箱根駅伝

所沢のグラウンドに立つ武士

――まず箱根直前期のチームについて伺います。全体的な調子や、チームの雰囲気はどう感じていましたか

 雰囲気自体はとても良くて、というのも今季は2月の唐津10マイルなどから学生たちが軒並み自己ベストですとか、目立つ記録を出していてチーム全体として士気が上がっているのもあって。その中でも大きかったのがトラックゲームズin TOKOROZAWAで総合優勝できたことと、中谷(雄飛、スポ3=長野・佐久長聖)と太田直希(スポ3=静岡・浜松日体)の二人が日本選手権の標準記録を切ったことです。そこで「自分たちもできるんだ」と闘志に火がついてチーム内競争が激化したところがあります。そこを皮切りにいろんな選手がいい記録を出して、日本選手権でも二人が27分台を出しましたし、箱根に向けて雰囲気が良くなったのかなと思います。

――チーム内でトップレベルの記録が出るというのは他の選手にも影響を与えるのですね

 僕個人的に大きかったと思うのは中谷だけでなく直希も好記録を出したというところで。中谷はやはり高校時代から世代トップで走ってきて、大学1、2年目はちょっと苦しんでいたとはいえエースとしてやってきた選手ですが、直希に関しては、元々持っているものもありますが地道にやってきたものがしっかり成果につながったというところで、みんなの気持ちに火をつける役割を果たしたのかなとは思いました。

――地道に取り組んできた選手が成果を発揮するというところでは、一般組の山口賢助(文3=鹿児島・鶴丸)選手の活躍もありました

 今季は中谷と直希に目がいきがちですが、山口に限らずBチームの選手の躍進も大きくて。室伏(祐吾、商3=東京・早実)とか山口とかがAチームに肉薄するようなタイムを出して、その後に河合(陽平、スポ3=愛知・時習館)や茂木(凜平、スポ3=東京・早実)という一般組がしっかり14分20秒あたりを出したというのがチームとしてすごく良かったと思います。

――最後の箱根を迎えるにあたって、主務としてどんなことを心掛けて過ごしてきましたか

 マネジャーになってからの心掛けになってしまいますが、機械のようなマネジャーにはなりたくないと思っていました。表面的には誰にでもできてしまうような仕事をする場面も多いので、それをやって満足するのではなく、それをやっていかに別のところで、目には見えないかたちでチームにどう貢献していくかというところです。組織をどうやって引っ張っていくかという部分で自分の持ち味を生かしていければいいかなと意識していました。

――箱根を迎えたときの心境は

 箱根というのは僕にとって特別なものであり、そのチームでやれる箱根は二度とないので、待ち遠しかったような寂しいような気持ちで毎年迎えてはいます。特に今年は(自分が)箱根に挑戦できる最後の年なので、期待感と、終わってほしくないという二つの気持ちでした。

――ご自身にとって箱根とはどんな存在だったのでしょうか

 一言では難しいですが、本当に小学校の頃から追いかけてきた夢で。ここまでの人生箱根のためにいろいろな選択をしてきたので、人生をかけて挑戦してきたかけがえのない、特別なものでした。

――往路は監督車からレースを追っていましたが、実際に乗ってみていかがでしたか

 今年はコロナの影響で沿道応援が自粛されていたせいか思ったより高揚感はなくて。もっと何重もの人垣ができていて「こんなところを走っているのか」という気持ちになるかなと思っていましたが、意外にも結構冷静に見ていました。1区はあまり選手の様子も見られず、最初すごくスローペースなことにもあまり気付かなくて、合宿所の情報班やラジオからの情報ですごく遅く進んでいることを知りました。2区以降は選手の近くを走ることが多く、いつもより長く早稲田の選手の走りを見られるのは特別な機会だったのでうれしかったですね。

――監督車の中ではどんな仕事をしていましたか

 今年は沿道でのボード出しができず前後の差やレース状況を把握するのが監督車だと難しかったので、情報班からの連絡を僕が監督に伝えるというのがまず大前提としてありました。あとは後続との差を自主的に測ったり、後ろから追い上げてくるチームの情報を伝えたりと、監督の指示出しのサポートをしていました。

――ではレース中のことをお伺いしていきます。1区の井川龍人(スポ2=熊本・九州学院)選手が5位でつないだというのはどう捉えていましたか

 本人としては悔しい結果かなと思いますが、チームとしてはまずまずだと思いました。他大学などを見てもやはり序盤の流れがその後の流れを左右するところがあると痛感したレースだったので、それを見ると井川は1区としての役割を果たしてくれたのかなと思います。

――井川選手は昨季から比べて躍進、復活した印象ですが、練習での取り組みを見ていて昨季との違いは感じましたか

 今季に入ってから結構違う取り組みをしていて、合宿に入ったくらいからはフォームの改造をしていました。大きいストライドを生かして地面から反発をもらい、推進力を上げていくのが目的だと思うのですが、そういう取り組みを相楽さん(相楽豊駅伝監督、平15人卒=福島・安積)とも結構話しながらやっていた印象ですね。あとやはり距離をすごく踏んでいた印象があって、体も絞れているなと感じていました。(それらの取り組みが)今季後半にしっかり記録が伸びた要因だったのかなと思います。ですが本人は「もっとやれる」というような話はしていたので、来年以降も、駒大の田澤(廉)選手とかもライバルになってくるかと思うので、そういう存在をおびやかしていってほしいです。

――2区の太田選手の走りはどう見ていましたか

 (井川が)いい位置でつないでくれたと思っていて、近くに日体大の池田(耀平)選手など強い選手がいる状況で、直希の持ちタイムからすれば走りやすい選手が近くにいたと思います。本人もレース前に、「残り8キロを過ぎてからが勝負」と言っていたのでそこまでうまく集団で行ってそこから抜け出してくれればいいなと思って最初は見ていました。ただ池田選手が飛び出したのに反応できず、その後も思ったようにペースが上がらなかったと思います。それでも2区終了時点で相楽監督も「うまくつないだ」とはぼそっと言っていて、タイムもそこまで悪くはなかったのでまずまずでつないだかなとは思いました。ただやはり持ちタイムとか前評判からしたらあと一歩だったのかなと。次の日小指(卓也、スポ2=福島・学法石川)の付き添いをしていてちょっと会ったのですが本人も悔しそうでした。

――3区中谷選手の走りはどう見ていましたか

 相楽監督とどんなレースプランでいこうとしていたかは僕も分かりかねるのですが、僕から見たら結構遅く入っていました。ですが監督車からの指示では「いいペースで入っている。落ち着いて入っているから10キロから15キロの5キロでしっかり上げていって最後出し切れるように」とは言っていて。ただやはりその指示に反してペースがなかなか上がってこないなっていうのは見ていて感じました。自重して入ってそのままいってしまったというか、体が動かなかったというのが見ていて印象的でした。後半は上げたくても上げられなかったという感じですかね。

――4区の鈴木創士(スポ2=静岡・浜松日体)選手は後半で前を猛追し3位に押し上げるという走りでした。鈴木選手の走りはどう見ていましたか

 僕が一番ひやひやしたのが、4区ですね(笑)。たぶんチーム的には中谷の走りが「あれ?どうしたんだろう」というのがあったと思うんです。言ってしまえばダブルエースを3区終了時点で2枚使い切ってしまった状況でそこまで順位が良くなかったので「大丈夫かな」と。ですが僕は4区が一番本当にひやひやしていて。というのも、前に順大がいて、最初の1キロは結構速いペースで入ったんですよね。相楽監督とも「ちょっと速すぎるんじゃないか」という話をしていました。そこから順大と並走するかたちだったのですが、3キロ過ぎくらいで(鈴木が)離れ始めて、もう本当に20キロ走った後みたいな走りでフォームも悪くなりペースもすごく落ちていました。3キロ過ぎで「これはまずい」となり、さらに後ろからも2チームが来て3人くらいの集団になって、本当に「大丈夫かな」という話をしていました。そうしたら(残り)5キロ過ぎくらいで復調してきて周りをかわして順大にも追い付きました。そこからどんどん前のチームをとらえていって、というところで動きが良くなったので、それ以降はもう大丈夫だと見ていました。ですがまあ本当に前半はひやひやして。テレビではそういうところがあまり映っていないと思うので、うまく後半順位上げているなと映ったと思いますが、僕からすると本当に、終戦したんじゃないかなと思いました(笑)。なので本当に3位まで上がったときは「創士ありがとう」という気持ちでしたね。

 あとは秋に希望する選手で菅平に行ったのですが、毎日の終わりにミーティングがあって。住吉(宙樹、政経4=東京・早大学院)がその合宿では一番上だったので色々テーマを決めていた中に『感謝を伝えたい人』を話してほしいというのがありました。それで創士の番のときに僕の名前が出てきたんですね。マネジャーになってから「日本一のチームにしたい」「日本一のマネジャーになりたい」というのはずっと僕が言ってきていたのですが、それを創士も聞いて、「僕も優勝したいし、武士さんを日本一のマネジャーにしたい」「チームが勝たないと、日本一にはなれないから絶対にチームを勝たせたいんです」と言っていて。もう、すごいそれがうれしくて。そこから創士と話す機会も増えていたのですが、(箱根では)すごくきつそうだったので、10キロと15キロの給水係の選手に「『後ろから自分が見守っている』ということを伝えてほしい」と言ったんです。そしてレース後に創士から「それがめっちゃ力になりました」と言われて。なんか、良かったな、というか、本当に「創士ありがとう」という感じで見守っていましたね。

――確かに鈴木選手はずっと「優勝したい」とコメントしていました

 新チーム発足時にチームの目標を決めたのですが、それも『3冠』か『3大駅伝3位以内』という部分で結構意見が割れた部分がありました。チームの現状を考えたときに後者に落ち着いたのですが、本当に創士は最後まで「何でこのチームで優勝を目指さないんですか」と言っていました。僕もそのときはチームの現状を最優先して3位以内を目標としてはいたのですが、個人的な気持ちとしてはやはり優勝したいことに変わりはないので、そこは創士と個人的に話してはいて。二人で「優勝したいよね」というのはことあるごとに言っていました。

――武士さんのパッションを引き継ぐのは鈴木選手でしょうか

 選手の中ではそうですね(笑)。優勝への気持ちが強い選手がチーム内にいるというのはやはりチームにとっても大きいと思います。その情熱とか熱さが周りにも伝染して、創士はあと2年間あるので優勝を目指してほしいなと思います。

――鈴木選手はチーム内でどんな存在なのでしょうか

 ストイックですかね、競技に対して。結構走行距離も多くて、合宿で3時間くらいジョグしてきたこともありました。優勝を公言しているところでしっかり周りにも練習の姿勢とかで見せていくタイプかなと思います。

――5区は諸冨湧(文1=京都・洛南)選手が1年生ながら出走されました。この走りはどう見ていましたか

 僕も本人と話したは話しましたがレースの振り返りを個人的にしたわけではないので、本当の原因がどういうところかは分かりません。ただ僕から見たところだと、やはり後ろから東洋大の宮下(隼人)選手とか東海大の西田(壮志)選手とかすごく山で実績を残してきたランナーが追いかけてくるという展開が影響したかなと。宮下選手がすぐに追い付いてきて(諸冨も)そこに付いたことで、本来のフォームとずれたというか。たぶんピッチで細かく脚を回転させてリズム良く上っていくタイプだと思うのですが、(宮下選手に付いたことで)間延びした感じになってしまっていて。それでリズムが狂ってしまったというのが印象としてはあります。メンタル的にはすごくいい状態で箱根を迎えていたので大丈夫かなと思ったのですが、僕たちには話していなくても本人の中では重圧とかもあったのかなと思います。5区という箱根において重要な区間を1年生に任せてしまったところで、チームとして申し訳なかったとは感じました。

――同じく5区候補だった吉田匠駅伝主将(スポ4=京都・洛南)に対してはどんな思いがありますか

 本当にこの1年間けが続きで、まともに走れたことがなくて、本人としても主将を務める上で負い目を感じている部分はあったと思います。箱根後も「すごく1年が長かった」と話していました。僕は本当にこの1年間楽しくて、主務として組織を引っ張ることにやりがいや楽しさを感じていたので終わってほしくないなと思っていたのですが、吉田にとってはものすごく長かったらしくて。そういうところを主務としてフォローしきれなかった点で申し訳なかったなとは思っています。本人も箱根の5区で3年生のときに悔しい思いをしているので、その借りを返すという意味も持っていましたし、これまでチームを引っ張りきれていなくて箱根でしっかり主将としての姿を示したかっただろうとは思うので、本当に走ってほしかったです。ただけがの具合が芳しくなくて監督も使うという判断ができなかったと思うので、というところです。復路のリザーブも兼ねていたので、ぎりぎりまで判断を迷ってはいたとは思うのですが、復路の選手の状態も良かったので当日は出られなかったというかたちですかね。

――往路を11位で終えたときの心境は

 正直、本当に正直なところを言ってしまうと、最後の箱根だったので、「まじか」というか、もっと(上に)行ってほしかったなという思いはありました。ですが選手もなりたくてこの順位になったわけではないですし、諸冨もレース直後に様子を見たらやっぱりやりきれない悔しさがあったりして。そういうのを見たらこのまま終わったら諸冨も報われないというか、苦い思い出で1年の箱根が終わってしまうので、復路でしっかり立て直していきたいという気持ちに切り替わりました。復路の選手とはLINEや電話で個人的にやりとりをしていたので、そこで「しっかり復路で巻き返していこう」という話はしました。

――復路の選手にはどんな言葉を掛けていたのですか

 往路の順位に関わらず復路優勝したいというのは集中練習のときに相楽さんも言っていて、復路にエントリーされたメンバーもタイム的にはいいものを持っており自信もあったので、しっかり復路優勝して順位を上げて終わろうと話していました。

――6区は北村光(スポ1=群馬・樹徳)選手が好走しました

 たぶんチーム内には不安に感じていた人もいたと思いますが、練習は順調でした。あとはちょっとネジが外れているというか天然な部分もあって(笑)。レース前も「全然緊張してないです」みたいな感じだったのでそこは1年生だけど大丈夫なんじゃないかと思っていました。下りとかは結構勇気が要ると思いますが、1年生だから心配とかはなくて、たぶんやってくれるかなと思っていたらやってくれました。上りで(後ろに)追い付かれたときに心配した方もいると思いますが、僕的には下りの足さばきがうまいと感じていたので巻き返してくれると思っていました。あと一番安心したところは、大平台のヘアピンカーブで後ろの様子を確認したシーンです。その余裕度を見て、大丈夫そうだなと。1年生で58分台はすごいと思うので、よくやってくれたなと思います。

――7区は唯一4年生として出走された宍倉健浩(スポ4=東京・早実)選手ですが、どんな思いで見ていましたか

 本当に、4年生で唯一だったのでみんなの想いを乗せて走ってほしいなというか。ずっと谷間世代と言われてきて、最後くらい見返してほしいなと同期として思っていました。走る前に中継所で会ったときもそういう話をしました。単独走は苦手な方だと思うのでタスキが渡った位置は結構難しいポジションで、なかなか追い付かず苦しかったかなとは思います。それでも最後しっかり(順位を)上げてくれて、本当に4年間の集大成、意地が見えた走りだったと思います。今回本人の走りを生で見ることはなかったですが、テレビも結構映してくれて、見ていてうれしかったですし最後まで走りきってくれて良かったなと思います。

――8区は一時後続が迫ってくる場面もありました。千明龍之佑(スポ3=群馬・東農大二)選手の走りをどう見ていましたか

 最初の定点で思ったより順位が良くないというのはありましたが、9区の中継所で直希と話した感じだと、昨年の(太田が)区間4番だったときのタイムとあまり変わらないという走りでした。また終盤に遊行寺もあるので、そこでペースダウンして失速するよりかは落ち着いて入ったほうがいいかなと思いました。後半遊行寺の坂もすごくいい感じで上がっていたので千明に関してはあまり不安はありませんでした。むしろ後ろが迫っているからこそ千明で何とかしてくれという感じで。僕本当に千明はエースだと思っているので、しっかり千明のところで後ろを引き離してくれるかなと思っていました。そしたらやってくれたという感じでしたね。

――千明選手は駅伝主将になりますが、どんなことを期待していますか

 千明はある意味周囲を気にせずガンガン思ったことを口に出していくタイプです。彼が2年生のときとかも上級生に対して意見を言ったり、ここがおかしいというところを指摘したりとか、練習でも引っ張っていくところがあります。ちょっと口下手な部分もありますが、言葉でまとめるというよりは練習での姿、背中で引っ張っていくタイプのキャプテンかなと思います。熱さもあるので。ただ、最近そこまでパッションを出してないかなとは個人的に見ていて思うので、残り1年間、主将としてしっかりチームへの熱い思いを持って、言葉でも行動でも引っ張っていってくれたらいいチームになるのではと期待しています。しっかり結果も出せる選手だと思うので、そういう面でもしっかりチームを鼓舞していってほしいです。

――9区小指卓也選手は集団走という展開になりました

 最初にテレビに映ったときに3チームくらいの集団を引っ張っていたので、利用されたらいやだなとは思っていました。ですが小指はたぶん他の選手に比べてすごくストライドが広く伸び伸びした走りが持ち味なので、後ろについて縮こまってしまうよりは前に出て自分のリズムで走れたほうがいいかなと見ていました。距離の不安は個人的に僕も感じていた部分ではありましたが、給水のときに笑っていて、大丈夫だろうなと思いました(笑)。

――10区は最後まで順位がどうなるか分からないような展開でした。どんな気持ちで見ていましたか

 山口は11月の記録会で(1万メートル)28分20秒を出したときから自信が出てきたみたいで。それ以前は、良く言えば謙虚というかあまり意思表示がうまくない選手でしたが、そのレースを終えてからは自分の目標やビジョンをしっかりと持てていました。「箱根では優勝したい。自分は区間新記録を出す」ということをずっと言っていたので、それがうまく自信になりいい走りにつながればいいなと思っていました。レースが始まってペースもそこまで速くなく進んでいて、後ろから国学院大も迫ってきて集団になりました。ですが本人的にもスパートがあるタイプではないので、自分のペースで押していって区間新を狙う方が5位も狙えたし、集団でいくよりはいいのではないかとは思いました。中継にもあまり映らずどういう状態か分からなくて不安もありました。ただ、最後ゴール地点で待機しているとき、今年は選手が見えてきた大学のサポート係から順次呼ばれて中に入るかたちだったのですが、5位の東海大までが呼ばれて次が集団という状況で。他大の方と一緒に待っていると「うちが先だよね」みたいな話を周りがしていました。僕もちょっと(選手が来る方向を)見てはいたのですがユニホームの色とかもよく分からず、全然情報がなかったので「まじか」と。でも最初に「早稲田大学入ってください」と呼ばれて、「お、まじか」となって。山口の顔が最後見えてきて、本当に生き生きと走っていたので「よくやった」という感じでした。

――6位という結果に対して、終わった直後の気持ちというのは

 昨年は(その前に)シード落ちもしていて予選会も9位だったのでほっとした気持ちのあとから悔しさがじわじわきました。ですが今年は3位以内を掲げていて、5強と言われたりもしていて現実的に狙えるところで。僕的にも優勝を目指していましたし、チーム内でも優勝したいというメンバーが多くいたのでそういうのを考えると(6位には)全然満足できませんでした。集団の中で勝ち切ってくれたことに対してはよくやったという思いでしたが、全然悔しさのほうが大きかったというか、もうちょっと(上を)狙えたのになという気持ちでいました。

――箱根から日が経ちましたが、今の心境は

 順位については同じ気持ちで、今振り返っても絶対に狙えたチームだったし、力を出し切れなかった部分が大きかったと思います。創価大とかはチーム全体で力を120パーセントくらい出し切れたというのが好結果につながったと思っていて、僕らの場合はすごくいいメンバーがそろっていたが60、70パーセントくらいしか出し切れなかったのが要因かなと思うので悔しいです。出し切れて6位だったら気持ちも違うかもしれませんが、絶対に(上を)狙えたチームだったので悔しさがどうしても残ります。個人的には、燃え尽き症候群みたいな(笑)。本当に箱根一筋でやってきたのでレース後は「もう終わっちゃったんだ」という、心に穴が開いたようで。ちょっとしてからもなんかぼーっとしちゃうというか(笑)。そこまで情熱をささげるものに今後出会えるのかな、と。チームとしては3冠を目標にすると思いますが、千明など今の3年生を中心に、あまり(箱根の結果を)引きずりすぎず、しっかり狙っていってほしいなと思います。

自身の4年間を振り返って

2020年3月8日の早大競技会でタイム計測をする武士

――競走部での4年間を振り返ると、どんな思いが浮かんできますか

 『感謝』ですかね。やっぱりすごく貴重な経験をさせてもらったなと思っています。4年間を振り返ると本当につらいことばかりでしたが、マネジャーになったからこそ得られた経験もありますし、いろんな立場に立って4年間駆け抜けてきたので、様々な目線でチームのことを見られて非常に濃い4年間でした。選手としてもマネジャーとしても本当にたくさんの人に支えてもらってここまでやってこられたと思うので、そこに対しては本当に感謝しかないです。特に磯先生(礒繁雄監督、昭58教卒=栃木・大田原)や相楽さんと駒野さん(駒野亮太長距離コーチ、平20教卒=東京・早実)にはもう、感謝しかないというか。怒られたこともありましたが全部自分のためになって。今後の人生にも生きる、4年間以上に濃い経験ができたと思っているので競走部にいた経験をこれからの人生に生かしていきたいです。

――選手として過ごした1年目は戸山キャンパスに通いながらの練習。さらにけがにも苦しみましたが、今振り返るとどんな1年間でしたか

 中学とか高校時代は全国規模ではなくチームの中心で活躍できるくらいの力だったので、周囲からも期待されていたし、結果も出すことができてすごく充実していました。ですが早稲田大学は全国各地から力のあるランナーが集まってくる場所で、やっぱり一般入試で入ってきた僕には期待の目線もないですし、けがも本当に多かったので、正直、箱根で自分が走っている姿は全く想像できなくて。記録会ではけがの影響もあって全然結果を残せず、辞めそうになったこともありました。親にも泣きながら電話したこともあったくらい、本当につらかったです。

――2年目の7月にはご自身の競技継続をかけたレースがありましたが、どんな思いで臨みましたか

 もちろん選手として残りたいという思いは絶対的にありました。そのときのマネジャー決めの条件が、同期の中で一番タイムが出なかった人ということだったので、同期に負けないようにがんばろうと思っていました。ですが2月頃に疲労骨折をし、6月に入っても痛みが治らず、痛み止めを飲んだりして1カ月間無理やり練習していました。4カ月以上走れない状態でありながら、進退をかけたレースまで1カ月しかなくて、正直、無理だろうなとは思って試合に臨みました。4月頃にそういうのが自分でも分かってきたので、先輩のマネジャーである田村さん(優氏、平31スポ卒)とか井上さん(翔太氏、平31スポ卒)にマネジャーの話を聞いたり。二人も選手からマネジャーになったのでどうトレーニングしていたかとか、どんな心境でいたかなど聞いていたので、(選手として)残りたい気持ちもありつつ、諦めていた部分もあったのかなというか。いきなりマネジャーをやれと言われてできませんし、心ではちょっとマネジャーになる準備もしていたのかなとは思います。

 やっぱりレースは十分な状態で臨めずタイムも全然ダメだったので、ある程度自分の中では分かっていたし覚悟はしていました。ですが駒野コーチから「明日からマネジャーをやってくれ」と言われたときは、いざ現実になってみると耐えきれないところがあって、たぶん人生で一番泣いたんですよね。気持ちも全然切り替えられなかったのですが、次の日相楽さんに『日本一のチームには日本一のマネジャーがいる』と言われて、それが自分の新しい夢になったというか。その言葉をもらったおかげで徐々に気持ちを立て直して、箱根に向けてこういう貢献の仕方もあると分かり気持ちを整理できました。

――選手でなくても、マネジャーとして続けようと思えた理由はどんなところにありましたか

 一つは早稲田というものと箱根に対する思いが、選手からマネジャーという立場になっても一切変わらなかったというところです。選手として続けるのが駄目だったから部活をやめようとは全く思いませんでした。やっぱり自分が好きなものだったので、それに対してどんなかたちでもいいから貢献したいと。また、選手として1年半競走部には面倒を見てもらって感謝しかなかったので、競走部に貢献したいという気持ちがあったから続けようと思いました。あとは純粋に相楽さんに言われた言葉が響いていたのもあります。

――選手経験者がマネジャーになることの意味についてはどう考えていますか

 選手の気持ちが分かるというのは大きいかなと思っています。マネジャーとして最初から入った人が選手の気持ちを分からないということではないですが、早稲田大学競走部という環境の中で選手としてともに行動したというところで、そういう関係性が既に選手と築けているし、指摘しやすいというか。選手をやっていたからこそ選手に言える部分もあったり。あと、「武士がマネジャーをやっているんだからお前も頑張れ」とも言われます。僕はそういうことは思っていませんが、選手の中にはそういう部分で頑張れる人もいたりするのかなと思っていて。僕は結局は自分で選んでマネジャーを続けているので、やらされているというのは全くありませんし、そう思ってもらうのに否定的ではありますが、少なからずそういう部分もあるのかなと思います。

――マネジャーはチームの中でどんな役割を果たすべきだと考えていましたか

 大学スポーツのチームというのは特殊というか。競走部ではマネジャーというのは選手とスタッフ陣の間に位置していると感じています。選手の意見も分かるし、監督やコーチと話して思いを聞く機会も多いので、二者の調整役のような立場にいるからこそ組織を引っ張っていけると思います。だからマネジャーの使命は与えられた仕事でとどまってはいけないと思っていて、組織を運営していくという目線で、それをいかに選手たちに反映させられるかというのが技量としてあると思います。いろんな立場の意見が分かるからこそ、どう組織を導いていくかという役割を担うと考えています。

――以前のインタビューで、マネジャーとして「支えるというよりは一緒に戦うというイメージ」だというお話が印象的でした

 サポートと言ってしまうと選手の補助みたいになってしまうと思います。マネジャーの仕事は、選手から見えるのは練習でのタイム取りとかビデオ撮影。裏方の部分だと会計とか試合の手配や運営とかだと思うのですが、別にそれってマネジャーがやらなくてもいいかなと思っていて。たまたまマネジャーがその役目をしているだけで、タイムを取るのだってビデオ撮影だって選手の中でもできるかなと。言ってしまえば誰でもできることだと思うので、それをただこなすだけでは組織の中の役割としては薄くて僕はそれを実質的な選手の『サポート』だと思っています。そういう意味で『一緒に戦う』というのはマネジャーとしてもう一個上の次元で役目を果たしていくことです。先ほど言ったように、組織を導くとか目に見えない部分で選手を鼓舞したりうまくもっていったりとか、スタッフ陣の方針をうまく落とし込んでいくとか、そういう部分にあるかなと思っているので『サポート』より『一緒に戦う』と考えています。

――主務になったからこそ経験できたことで、一番大きかったのはどんなことですか

 すごく影響力が大きいなとは1年間やっていて感じました。プラスの面もありますがもちろんマイナスな面もあります。自分がいい加減な行動をしていると個人レベルではなく組織全体レベルに影響を与えてしまうので、そういう意味では本当に気を引き締め続けた1年間だったと思います。

――4年間で一番大変だった時期は

 4年生の1年間だったと思います。つらいことという意味で振り返ると1年時とか、マネジャーになりたてのとき、裏方の仕事をこんなに理解してもらえていないんだって思うことがあったり、そういうのを割り切れていない自分がいました。こんなに裏にやっているのを選手だったときの自分は知らなかったし、それをやって「この仕事ってこんなに知られていないんだ」と思いましたが、それを自分から言うのも絶対に違うなと思ったのでつらかった経験ではありました。ですが4年生の1年間のほうが、ずっとチームのことを考えていて。それこそ終わった今でさえ今後のチーム大丈夫かなと不安になったり、4年生としてチームをまとめられているかという思考をずっと巡らせていたので休まる時間もなく。それが一番、楽しくもあり大変でもあったと思います。大変なことが楽しいというか。自分が本気で考えていないとそんな大変にはならないと思うので、ここまでチームに関われているんだと。自分がこのチームを動かしていると感じることもあり、自分が小さい頃から憧れていた早稲田のこのチームで大きい影響力をもって活動していることに楽しさがあったという感じです。

――ご自身にとって早稲田の競走部はどんな存在ですか

 難しいですが、ずっと輝いているものというか。母親の影響でずっと応援してはいましたが、やっぱり僕は(学生3大駅伝で)3冠したときからすごく早稲田のファンで。 あとは純粋にエンジという色も特別です。他の大学の色味にはなくてすごい僕の中で特別感があって、その魅力に取りつかれてからずっととりこというか(笑)。もう小さい頃からずっと早稲田しか応援していなくて生まれたときから自分のチームみたいな感じでいるんですよ(笑)。そういう思いですね。

――これからのチームに期待することは

 やっぱり早稲田は勝たなくてはいけないチームだと思っています。過去を振り返ってもレジェンドといわれる選手は早稲田から多く出ていますし。世界に通用する選手を輩出したいという思いも根底にあると思うので、日本を代表できる選手が多く誕生してほしいしそういうチームは箱根などの駅伝で強さを見せてほしいです。来年度はチャンスの年だと思うので、しっかりそこで勝ち切って強さを見せ続けられるチームになってほしいです。これは競走部OBとしてもいち早稲田ファンとしても、という感じですね。

――では、マネジャーの後輩たちへ伝えたいことはありますか

 下の学年は佐藤恵介(政経3=東京・早実)と江本亘(スポ3=愛知・岡崎北)と石田和嘉子(商3=静岡・浜松日体)が短距離にいて、3人は1年生からやっていて僕よりもしっかりしていると思うので実務的には全然心配していません。その3人の代で終わらせるのではなく、気持ちとかそういう面も全部下の代、マネジャーブロックに引き継いでいってほしいなと思っています。長距離は、これから久保(広季、人3=早稲田佐賀)一人になってしまうので少し不安な部分もありますが、自分だからこそできることを考えて動いていってほしいなと思います。あとは石田が、『日本一のマネジャーブロックを目指す』という僕の気持ちを引き継ぎたいということも言っていたので、そういう思いとかパッションとか(笑)、引き継いでくれたらうれしいです。

 佐藤は本当にしっかり者というか、1年生で入ってきたときから磯先生にも信頼されていたり、周りからの信頼が一番厚いかなと思います。本人が何に対しても誠実である部分にその要因があると思うのですが、信頼関係ができ上がっているからこそ言える部分や組織のために動ける部分があると思うので、そういうところをしっかり見出して主務として動いていってほしいと思います。江本は一番実務能力が高いんじゃないかなと思っています。僕も彼に頼ることが多くて、厄介な仕事を任せてしまうことがあってちょっと申し訳なかったのですが。ただその甲斐もあってか(笑)、非常に能力が長けています。本人はどう思うか分かりませんが、縁の下の力持ち的な役割を果たしてくれたらと思います。ただしっかりそういうのが報われてほしいので、表に立ってチームを引っ張っることもしてほしいなと思います。石田は選手との距離が近くて、だからこそできる部分も多いかなと。あとは視野もすごく広くて今までも助けられる部分が多かったので、佐藤と江本という二人のマネジャーを一歩引いた目線で見て、うまくブロックをまとめていってほしいです。あとパッション的には一番僕に近い部分があると思います(笑)。チームへの思いも強いのでそういう部分を前面に出していってほしいです。

――2年生のお二人に対してはいかがですか

 望月(那海、教2=埼玉・早大本庄)は大人な感じがありますね。書道をやっていたこともあって、漢祭りの画像の『漢』を書いたりマルチな才能を発揮しています。副務にもなりましたし、部の中でも一目置かれているというか。中心的な存在になっていくと思うので、同期の2年生をしっかり見つつ先輩からマネジャーの極意とかを学んでほしいなと思います。東(陸央、社2=東京・早実)もマネジャーになりたてで今は望月が中心となって活動していくと思うので、自分一人で抱え込みすぎず、しっかり周りを頼り、いろんなことがプレッシャーで重荷にならないようにしてほしいなと思います。

 東は僕とちょっと似ている部分があって。競技を続けたい思いもあったと思いますが、たぶんいろんな思いがあって自分からマネジャーになったからこそ意欲的に学んで吸収しようとしているように思います。コミュニケーションもすごく取れているし、マネジャーとして熱い思いも持っています。(マネジャーの)3年生3人と過ごせる時間が東にとってはすごく貴重な時間になることは間違いないので、そこで得られることを全部吸収して、彼らが抜けてから彼ら以上になっていけるように、今からがんばってほしいなと思います。

――ありがとうございました!

(取材・編集 布村果暖)

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◆武士文哉(たけし・ふみや)

1998(平10)年5月16日生まれ。群馬県・高崎高出身。文学部4年。幼い頃にエンジに魅了され、競走部に入部。選手として箱根路を走ることこそ叶いませんでしたが、その熱き思いを途切れさせることはなく、最後の箱根は主務として大手町で選手を迎えました。