チームをシード圏内に押し上げる走りを見せた宍倉健浩(スポ4=東京・早実)。今年の東京箱根間往復大学駅伝(箱根)は4年生唯一の出場であった。自身の走りから今までの競技生活の振り返りと、実業団に向けての心境を伺った。
※この取材は1月20日にリモートで行われたものです。
「自分ができる最大限の走りを 」
最後の箱根前公開取材。4年間過ごした所沢のグラウンドに立つ宍倉
――箱根が終わってからはどのように過ごされていましたか
実家にすぐ帰って、4年間の話を親としました。1週間ほど実家で過ごした後、今は一人暮らしをしながらだらだらと生活しています。
――最近はどんな練習を行なっていますか
軽いジョグをしています。
――箱根の走りに対し、ご友人や恩師からメッセージなどはありましたか
今年は去年以上に多くの人からメッセージが来ました。
――箱根が今まで支えてくれた人へ恩返しできる場だとおっしゃっていましたが、それについては達成できましたか
自分の中では思ったような結果が出せなくて悔しい部分は大きかったです。しかし、ありがたいことに展開的にテレビに割と映れたので、身近な人、親戚や応援してくれている人に関しては満足してくれたのでそこは良かったなと思っています。
――箱根が終わって3週間ほど経ちましたが、今の体の状態はいかがですか
1回完全にリフレッシュして、今は気楽に、特に何かに縛られることもなく過ごしています。実業団に向けて、入寮前に最低限の体の状態をつくっておこうかなと思っています。
――往路と6区のレースはどのような思いで見ていましたか
往路に関しては、日本選手権に出た2人が思ったよりも苦しい走りになったのかなというのは思っています。でもそこは仕方がないというか、ある程度は予想ができていた範囲だったので、よく頑張ってくれたなという感じです。5区に関してはよくも悪くも1年生らしい走りで、仕方がないのかなと思っていて、あのような状況をつくってしまった4年生の責任でもあるのかなと思いながら見ていました。復路に関しては、5区山上りで1年生がうまくいっていなかったので、6区も正直どうなるかわからないという部分がありました。なので特に6区の結果を気にすることはなく、自分がどういう走りをするかを考えながらアップをしていました。
――どんな気持ちでスタートラインに立ちましたか
あとは本当にやるだけというか、自分ができる最大限の走りをしよう、少しでも速いタイムで前の順位でタスキを渡そうという気持ちでスタートしました。
――11位でのスタートでしたが、レースの進め方としてはどんなイメージを持ってスタートしましたか
最初、前に青学大と帝京大の選手二人でいて、そこが二人で行くだろうなと思っていました。欲を言えばそこに追い付きたい気持ちはありましたが、スタートした瞬間に自分よりも相手の方が体が動いているというのが分かったので、あとはもう自分のペースで行けるところまで行って、最後20キロ終わる時に最低限でも帝京大は抜いて前で渡そうという気持ちでした。
――タスキを受け取った時はシード圏外でしたが、精神的に影響はありましたか
前がいる状況でのスタートで、どんな順位でも前を追いかけるしかなかったので、特にその時の順位は気にしていなかったです。
――今回のご自身の走りで反省点はありますか
箱根当日の走りに関しては、あれができる精いっぱいだったかなと思っているのですが、それまでの準備の段階ではいろいろと良くない点はあったなと思っています。
――7区への出走を2週間ほど前に聞いていたとのことですが、7区に備えた準備としてはどのようなことをしましたか
自分が走るのがどのようなコースかというイメージは持つようにしていただけで、7区だから特に何をしたといったことはなかったです。
――15キロからが勝負、ということ以外にレース中監督車からはどんな指示がありましたか
あまり覚えていませんが、最後4年生なんだから頑張れ、といった言葉は言われた気がします。
――給水の伊東利来也主将(スポ4=千葉・成田)、辻本活哉 マネジャー(人4=大阪・早稲田摂稜)からは何か声掛けなどはありましたか
「他の4年生の分も頑張れ」と言われました。
――8区の千明龍之佑選手(スポ3=群馬・東農大二)にタスキを渡したときの気持ちはいかがでしたか
あとは任せるしかない、という感じだったので、後半の3人に頑張ってくれ、という気持ちで渡しました。
家族や周りの人への感謝の気持ちが原動力に
3年時には初めて箱根に出場。エンジを背負い大手町に飛び込んだ
――入学時には世代トップクラスのタイムを持っていましたが1、2年時には箱根を走れなかったり、けがに苦しめられたりしてきたと思います。そういう時期をどう乗り越えてきましたか
まずタイムは持っていましたが自分が世代トップだという認識はなく、むしろ世代トップの人たちに比べたらまだまだだなという思いで入学して練習を始めました。そういった思いだったり、うまくいかない焦りがどんどん悪い方向にいってけがを繰り返してしまいました。けがの時期はどうしてもモチベーションが下がったりやる気が出なかったりして、相楽監督(豊駅伝監督、平15人卒=福島・安積)にもいろいろ言われたりして、あまり乗り越えられたという感じではありませんでした。でも、家族や応援してくれる人がいて、その人たちにしっかりと結果で恩返しがしたいという気持ちはずっと持っていたので、それがあってなんとかやってこれたという感じです。
――エンジを背負った7年間を振り返ってのお気持ちをお聞かせください
自分が練習や競技をやっている時は「長いな」と感じながら過ごしていましたが、終わってみれば7年ってあっという間だなと今は感じています。エンジを背負える、エンジを着て大舞台で走るという経験は誰もができるものではないので、そういう経験を早実時代から7年かけて早稲田を背負ってやってこれたというのは自分の人生良かったのかなと思います。
――競走部での4年間を振り返っていかがですか
大学はうまくいかないことだらけでした。自分のイメージしていたプラン通りにはいかなかったので、高校3年間に比べてもしんどい4年間でした。でも箱根を3年、4年と走ることができて、関カレ(関東学生対校選手権)や全カレ(日本学生対校選手権)も経験できて、いろいろな経験ができたのでそこに関しては良かったなと思います。一番は家族が箱根を走って喜んでくれたのでそこがすごく良かったなと思っています。
――4年間で特に印象に残っている試合は
3年の箱根です。箱根は見ている人も多いし、連絡してくれる人とかも増えるので。家族も箱根で走っている姿を見たいという気持ちがずっとあったらしいです。実際に箱根を走って展開も良く盛り上がってテレビにも映れて、周りがとても喜んでくれたので自分も良かったなと思いました。
――後輩たちにどんなことが残せたと思いますか
自分がおしゃべりなので、後輩とはいろいろな話をしてきたと思います。いろいろな情報は与えることができたのかなと思います。けがのことや競技面、それ以外のことでも自分の経験や考えなど多くの話をしてきました。その中で後輩が少しでも自分にプラスになるようなこと、反面教師にしてもらってもいいですし、うまく利用してくれたら後輩の役に立てたのかなと思います。
――同期の皆さんはどのような存在でしたか
個性があって、いろいろな人がいました。うまくいく部分もうまくいかない部分もたくさんあった4年間でした。一緒にやってきたことやぶつかりあったことは、自分の中でとても良い経験になったと思います。部活で本気でやっているからこそそういう経験ができたと思っているので、それができる同期はありがたい存在だと思っています。特に主務の武士(文哉、文4=群馬・高崎)は自分のメンタルも競技もチームのこともいろいろ相談できる相手だったので、主務の存在はとてもありがたかったなと思っています。
――実業団に入ろうと決めたのはいつ頃で、どんな理由ですか
3年の箱根が終わって去年の2月に実業団入ろうと決めました。ずっと陸上をやってきた人生で、まだ自分が何をやりたい、どういうことをしたいというのがはっきりとはない中で就活をしていました。内定をもらいましたが、そこで仕事をすることに対してワクワクしたり楽しそうという気持ちを持てなくて悩んでいる時にちょうど声を掛けてもらえたので。大学でやり残したこともいっぱいあるし、まだまだ自分はやれるのではないかと自分で自分に少し期待している部分もあるので、やりきって自分の限界を感じてから陸上をやめたいなという気持ちがあったのが理由です。
――JR東日本に決めた理由は何ですか
もともと声を掛けてもらえるようなレベルではなかったので、自分の中でそんなに選択肢があるわけではないですが、JR東日本の監督とコーチがもともと知っている方で。監督は高校時代お世話になった方で、コーチは大学1年の時に早稲田の大学院にいた方で早稲田の合宿にも参加していました。つながりもあったので監督とコーチがどういう人か、また自分がどういう人間なのか知った上で勧誘していただけたので、お互いに知っていて考えも話しやすいので入ろうという気持ちになりました。
――実業団での目標を教えてください
やるからには日本一というのはずっと思っていて、1番を目指してやっていこうと思っています。その過程でまずは例えば日本選手権、今年は標準が上がると思うので、まずその標準を切ることが目標です。その後には日本選手権をどう勝つかというのが目標になるのかなと思います。駅伝も大事にしたいと思っていて、ニューイヤー駅伝をJR東日本で優勝すること、チームに貢献できるような選手になって活躍したいなと思っています。
――ありがとうございました!
(取材・編集 佐藤桃子、及川知世)
関連記事
【第97回東京箱根間往復大学駅伝】
往路 主力を投入するも最後まで流れをつかめず、11位に沈む(1/02)
◆ 宍倉健浩(ししくら・たけひろ)
1998(平10)年6月19日生まれ。170センチ。東京・早実高出身。スポーツ科学部4年。自己記録:5000メートル14分01秒43。1万メートル28分16秒95。ハーフマラソン1時間5分22秒。2021年箱根駅伝7区1時間4分22秒(区間8位)。周りへの感謝を何度も口にする宍倉選手。早スポにも常に優しく接してくださりました。実業団の寮には早スポ箱根駅伝号の新聞を持っていってくださるそうです!4年間ありがとうございました!