目標としていた総合優勝には届かなかったものの、周囲の下馬評を覆し総合3位でことしの東京箱根間往復大学駅伝(箱根)を終えた早大。今季最上級生として練習からチームを引っ張り、往路では1区でトップと36秒差の好位置でタスキをつないだ藤原滋記(スポ4=兵庫・西脇工)にレースを振り返っていただいた。
※この取材は1月10日に行われたものです。
「チームのために、仲間のために」
スターターとしての役割を果たした藤原
――退寮された今どのように過ごされていますか
今は一人暮らしをしているのですが、今まで寮があったからこそのありがたみを感じる日々ですね。
――石田康幸選手(商4=静岡・浜松日体)と仲が良いと伺ったのですが、離れて暮らしてみて、いかがですか
今まで4年間にぎやかな中で生活してきて、うざいなと思った時もあったんですけど(笑)。離れて暮らすと寂しいなとも思うので、仲間の存在は大きかったんだなと感じています。
――大学4年間の競技生活を終えた今の気持ちはいかがですか
今の素直な気持ちとしては3位になって安心しているというのが正直なところですね。出雲(出雲全日本大学選抜駅伝)、全日本(全日本大学駅伝対校選手権)となかなか結果が出ない中で、自分の中でも箱根は失敗できないという思いがあったので、納得のいくとまではいかないんですけどそれなりの仕事はできたと思うので一安心しているというのが素直な気持ちですね。
――1区に決まったのはいつ頃だったのでしょうか
ずっと1~4区ということは言われていたんですけど、実際に1区に決まったのは12月29日の区間エントリーの時で。永山(博基、スポ3=鹿児島実)の状態が思わしくなかったので、なるかもしれないということは知っていたんですけど、はっきりと決まったのは29日です。
――1区に決まった時の気持ちはいかがでしたか
自分自身1区はあまり経験がなくて良いイメージはなかったんですけど、永山がダメになったとき自分しかいないことが分かったので、そこは腹をくくってスタートラインに立ちましたね。
――当日はどのようなレースプランで臨みましたか
1区は順位も大事なんですけど、どれだけ先頭との差を最小限で渡せるか、どういう位置で渡せるかが大事だと思っていました。2区の太田(智樹、スポ2=静岡・浜松日体)の調子が良く、いい位置で渡せば彼も走ってくれると分かっていたので渡す位置を考えて走っていました。
――当日のコンデイションはいかがでしたか
練習自体は積めていたのですが、一つ不安要素として10日くらい前から胃が痙攣(けいれん)することがあって。そこは気になっていたのですが当日は何もアクシデントがなくて良かったです。
――体調を整えるために何か対策はされましたか
緊張やプレッシャーが大きかったので、なるべく自然体でいることと消化の良いものを食べるなど対策はしました。
――ご自身の中で箱根に向けて具体的な目標はありましたか
今回は自分どうこうよりもチームとして納得のいく結果で終わりたかったので今までの駅伝とは違ってチームのために、仲間のためにという思いで走りました。
――スタート直後、他大の選手とぶつかってしまう場面が見受けられました
一瞬ヒヤッとしたんですけど、その後は何事もなかったので、動揺せず落ち着いてそのまま走りましたね。
――序盤から15キロ付近まで集団の中盤でレースを進めていた意図を教えていただけますか
監督(相楽豊駅伝監督、平15人卒=福島・安積)からも六郷橋からが勝負だと言われていたので、それまでは力をためるということを考えながら走っていました。無駄な動きはせず息をひそめて走りやすい位置を見つけ、力をためるイメージで走っていました。
――中盤でレースを進めていたのは風よけの意味も含まれていますか
最初から風が少し気になっていたので栃木君(栃木渡、順大)が積極的に引っ張ってくれていたので、彼のペースに身を任せるというか、強い選手の力を借りて走っていくことを心掛けていました。
――六郷橋付近で青学大の鈴木塁人選手、東洋大の西山和弥選手の仕掛けに反応できた実感はありましたか
あの時点で自分自身も余裕があったので、あそこから上げようと思っていたんですけど、思いの外ペースの上げ方が激しくて間が空いてしまったのでそこは思い切っていけなかったのは反省点ですね。それでも残り3キロ落ち着いて自分のペースで追っていけたのでその点に関しては冷静に対処できたかなと思っています。
――先頭と36秒差という結果はどのように捉えていますか
欲を言えばあと10秒くらい縮めて渡したかったんですけど、結果的に太田が順大の塩尻くん(塩尻和也、順大)とうまく走ってくれたので、そのおかげで自分も仕事ができたかなという気持ちです。
――タスキを渡すときは太田選手に言葉は掛けられましたか
前日に笑顔で渡すという話をしていたんですけど、僕自身余裕がなくて(苦笑)。結構いろんな選手が入り組んでいたので声を掛ける余裕がなかったですね。
――走り終えた直後の気持ちはいかがでしたか
今までの駅伝と違ったのはラスト5キロからいつもは早く終わりたいという気持ちがあったんですけど、今回の駅伝に関してはあと少しで終わってしまうという気持ちがあって。自分の中でも不思議な感覚で、終わった直後も、ああ終わってしまったんだなという気持ちでした。少し寂しい気持ちもありました。
――箱根の事前対談のときに「全日本ではレースで弱気になってしまった」と話されていましたが、今回克服できた実感はありますか
出雲、全日本と自分の中ですっきりしないというか、もっとやれたのではないかという気持ちがあったのですが、箱根に関しては1カ月前からやれることは全部やったので走り終わってもあれをしておけば良かったという気持ちはなく、すっきりした気持ちでした。
――今回のご自身の走りに点数をつけられるとしたらいかがですか
80点ぐらいの走りはできたと思っていて、残りの20点は青学大や東洋大に付いていければ100点だったかなと思います。
――事前対談で色紙に「走りで示す」と書かれていましたが、達成できましたか
4年生として最後のレースになるので後輩に何か残したいという思いもあったので、僕自身そして他の4年生もそうなんですけど、走りで示すことはできたかなと思います。
――2年生の頃、箱根で10区を走られたと思うのですが、その当時とやはり気持ちの面では違ったものはありましたか
2年生の頃は箱根に対して憧れの気持ちがあって、出ることが目標というのもあって。2年の箱根が終わってからは箱根に出ることは当たり前で、出てどう戦うのかを考えていたので、同じ箱根でも意味は違ったかなと思っています。
――今回の箱根を迎えるにあたって、チームとしての一番大きな不安要素は何だったのでしょうか
周りからも層が薄いと言われていたように、ケガをしたでは済まされないのがことしのチームでした。永山の故障もありましたけど、一人一人危機感を持ちながらということは心掛けていて。一人一人の責任の重さが今までとは違ったと感じています。
――4年生の快走が多く見られた往路を振り返っていかがですか
往路は4年生でつくって、復路で後輩に楽な位置で走ってもらうというのが僕たちのプランだったので優勝には届かなかったんですけど、3位で流れをつくれたので往路で仕事を果たせたかなと思います。
――復路はどのように見ていましたか
復路の選手を信用していないわけではないんですけど、練習から離れてしまう面などもあったので、簡単な戦いにはならないと思っていたんですけど、予想以上に自分が持っている力を出して3位を守ってくれたのですごく来年につながる駅伝をしてくれました。アンカーの谷口(耕一郎、スポ4=福岡大大濠)なんかは苦労してきた選手だったので、彼の快走は自分のことのようにうれしかったです。
――大手町で谷口選手を待っている時の心境はいかがでしたか
アンカーでもらった時点で少し3番は厳しいかなと思ったんですけど大手町で3番で見えた時はいろいろな思いがこみ上げてきて。僕自身このチームで1年間やってきて良かったなということを思ったので、谷口が帰ってきたときは、思いがこみ上げてきましたね。
――大会前、早大の下馬評があまり高くなかったと思うのですが、覆せた実感はありますか
周りからもワセダよく頑張ったねと言われてうれしかったですね。周りの下馬評を覆せたとは思うんですけど、僕らの目標は総合優勝だったので、それを考えると3位でおめでとうと言われるのは悔しい気持ちもあったので、うれしさと悔しさの半々といった感じです。
――ことしは最上級生としてチームを引っ張る立場でもあったと思います
結果としてはなかなか残せなくて僕自身つらい部分はあったんですけど練習などで先頭を譲らないことなどは一年間やってきたのでそれがかたちとして表れ、4年間めげずにやってきて良かったと思います。
「エンジのユニホームを着れたのは幸せなこと」
箱根事前取材の様子。箱根は藤原にとって早大を背負う最後のレースとなった
――早大に入学された時のことを今振り返っていかがですか
入学したときは日本の学生のトップになるということを思い描いていて。4年間終わってみて自分が思い描いていた通りではなかったんですけど、失敗をした分自分が成長するきっかけはあったと思っているので、ワセダに入学したことは後悔していないですね。ワセダというチームで競技をやれたことは自分自身大きなことだったと思っています。
――4年間を振り返っていかがですか
さっきも言ったんですけど、4年間成功よりも失敗の方が多くて自分の中で自信を失いかけたこともあったんですけど、最後の箱根が終わって今の気持ちはすっきりしていて、この4年間に未練はないので充実した日々を送れたと思っています。
――ご自身にとってエンジのユニホームはどのようなものですか
中学からの憧れであり、大学の4年間着て戦えたことは自分の中での夢がかないましたし、エンジを着て走った経験は今後の陸上人生でもプラスになると思います。ワセダでエンジのユニホームを着れたのは幸せなことですし、光栄なことだと思っています。
――今後も競技を継続されると思うのですが、どのようなランナーを目指していきたいですか
これからの方が大事だと思うので、実業団ではマラソンで活躍したいという思いが強いですし、自分自身可能性があると思っているので、ワセダの卒業生として活躍したい思いが強いです。
――共に過ごした同期の選手に向けて一言お願いします
人が良すぎるくらい優しいメンバーだったのでけんかすることも特になく、何でも言い合える関係だったのでそこは感謝していてこれからも競技を続けるメンバーは切磋琢磨(せっさたくま)していきますし、社会に出るメンバーもそれぞれの道を歩みますけど、4年間過ごした経験は僕も含めてかけがえのないものだと思います。4年間通して同期のみんなには助けてもらったので感謝の気持ちが強いです。
――これからワセダを担う後輩の選手に一言お願いします
特に3年生は長い時間を一緒に過ごしていましたし、来年は最上級生になってつらい思いもすると思うんですけどそれでも悔いなく終わってほしいという思いが強くて。特に3年生には一年間悔いのないような競技生活を送ってほしいと思います。
――最後に大学での競技生活を終えて一番感謝を伝えたい存在を教えてください
一番は両親で4年間自分の好きなことをやらせてもらったので、恩返しができたかは分からないですけど、両親の存在のおかげでこうして競技を続けられているので感謝したいです。
――ありがとうございました!
(取材・編集 岡田静穂)
◆藤原滋記(ふじわら・しげき)
1995(平7)年10月16日生まれ。176センチ57キロ。兵庫・西脇工高出身。スポーツ科学部4年。自己記録:5000メートル14分08秒36。1万メートル29分03秒96。ハーフマラソン1時間03分22秒。2016年箱根駅伝10区 1時間11分45秒(区間6位)。 2018年箱根駅伝1区 1時間02分52秒(区間11位)。