今回の東京箱根間往復大学駅伝(箱根)で10区に出走したのは谷口耕一郎(スポ4=福岡大大濠)だ。途中、日体大に詰めよられるも突き放し、ラスト1.5キロで東海大を逆転。総合3位に大きく貢献する走りを見せた。最初で最後の学生三大駅伝となった箱根路では何を思い戦ったのか。インタビューでは箱根前や当日のレース状況から早大競走部で過ごした4年間に至るまで余すことなく語っていただいた。
※この取材は1月12日に行われたものです。
「夢かなと思いました」
和やかな雰囲気で取材は進んだ
――箱根が終わってから帰省ではご家族やご友人から何か声を掛けられましたか
両親からはとりあえず頑張ったねということと僕は最後だったのでお疲れさまという言葉をいただいて、学校に挨拶行ったときに先生から最後気持ちが入ってて良かったということを言っていただきました。頑張ったねと声を掛けられることが多かったです。
――ご実家では何をされましたか
実家では本当にゆっくりしていました。2泊くらいしかしていないので、高校に挨拶に行ったり、自分で練習したり、高校時代の部活の同期と会ってご飯に行ったりしたくらいですね。
――箱根前の公開取材ではかなり調子がいいとお伺いしたのですが、調子が上がってきたのはいつ頃でしたか
11月の上尾シティマラソン(上尾ハーフ)で100パーセントとは言えなくても結果が出てきました。自分の中で上尾ハーフがまぐれだと言われたくないという思いがあって、それがうまく実を結んだのかはわかりませんが、集中練習で離れることなくつけるようになりました。周りも多分つけると思っていなかったので、自分で調子がいいと感じるというよりは周りから「調子がいい」と言われだして、自分は調子がいいのかなみたいな感じでしたね。
――あまり自分では実感はなかったということでしょうか
そうですね。体の状態がいいという感じではなかったのですが、昔までだったらつけなかった練習がだんだんこなせるようになっていて。間の練習を減らして合わせたというわけではなかったので、力がついたのかなと印象はあります。
――29日のエントリー発表では補欠ということでしたが、それはどういう意図があったのでしょうか
区間がまだ決まっていなくて。往路は変えることはないと思うんですけど、復路は前日の往路の結果を受けてだったり、復路にはまだ足に不安のある選手がいたりしたのでそういった面でおそらく相楽さん(豊駅伝監督、平15人卒=福島・安積)の中でも区間が決まってなかったと思います。2週間くらい前に「走ると思うから気持ちの準備だけはしておいてほしい、区間はまだわからない」という話はされました。早く知りたいと思う反面、4年生なのでどこを任されもいけるようにしないとと思っていました。
――区間が決まらない中でどのように箱根に向けて準備をされましたか
普通通りじゃないですけど、気にしても仕方がないかなというふうに思ったので、どこを任されてもいける、自分がいくという気持ちで練習に取り組みました。あとは3つくらい区間の候補があったので一通り1回は車を出してもらってコースを見に行って、あんまり考えすぎないようにしていました。
――候補になっていた区間はどこでしたか
7区、9区、10区ですね。
――最終的に10区に決まったにはいつごろでしたか
大晦日のお昼ぐらいに相楽さんに「10区でいくから」と言われました。10区はもともと自分でもいきたい区間だったので、「わかりました」と。
――なぜ10区になったのかは相楽監督から言われましたか
あまり言われてはいませんが、1つ言われたのは1500メートルをやっていたこともあって、「ラスト勝負になったときにスプリント力はあると思うから」というようなことは言われました。今回は残りの100メートルまで一緒ということはありませんでしたが、ラスト2,3校で固まっていてラスト勝負になったときのことを考えていたのかなと思います。
――往路はご覧になりましたか
往路は前日の練習があったので飛び飛びにはなりましたが見ていました。
――どのように感じましたか
4年生4人と太田(智樹、スポ2=静岡・浜松日体)が走ってくれて、みんなから気合いを感じたというか。4年生全体でことしの下馬評が低かったことで悔しい思いをしましたが、それを覆す走りじゃないですけど、往路3位という、持っているものを出し切った走りをしてくれたというふうに思ったので、みんなが作ってくれた流れを明日、自分たちが壊したらいけないなというのと、最後なのでしっかり走ろうと思いました。
――往路の選手から声を掛けられましたか
走る前に往路を走ったみんなから電話がかかってきて、とりあえず僕が最初の駅伝だったので、「緊張していると思うけど、最後だから怖がらずに、前だけ向いて楽しんでくればいいから」と言ってもらいました。
――往路3位という結果については
4年生みんなが頑張ってくれた結果だと思いますし、優勝を目指すという意味ではもっと上を目指すべきだったのかもしれませんが、僕は100点に近い走りをしてくれたかなと思います。
――前日は練習が終わってからはどのように過ごされましたか
練習が終わってからすぐに移動して、東京のほうに宿舎を取っていたのですぐに移動して、バタバタしたくなかったので早めに移動を終わらせて宿舎でゆっくりしていました。
――当日は緊張されましたか
はい。人生で1番緊張して、頭が真っ白になりかけました。
――夜は眠れましたか
前日以外の夜は眠れない日も正直あって、寝つきが悪い日もあったんですけど、前日は不思議と眠れました。
――当日のコンディションはいかがでしたか
良くもなく、悪くもなくという感じで。ただ前日から動きが硬いという話をされて。自分の中でも硬いんだろうなと思いながら走っていたんですけど、緊張の面で硬くなりすぎてないかというのが心配でした。
――復路の展開はご覧になっていましたか
そうですね。待機している場所にテレビが置いてあって、7区、8区までは全部ではありませんがテレビで見ていました。
――8区は厳しい展開になってしまいましたが、それについてはいかがでしたか
8区の大木(皓太、スポ2=千葉・成田)も初めての学生三大駅伝で、緊張していたんじゃないかなと。東海大の選手も力のあるので、抜かされても実力差から仕方のない部分もあるのかなとも思っていました。ただ大木のいいところはそういったときに根性があるところなので、このまま東海大と一緒に行ってくれればなと思っていました。大木も苦しいなりに最後まで頑張ってくれたなと思います。
――そんな中で9区の清水歓太選手(スポ3=群馬・中央中教校)の区間賞がありました
歓太も絶好調というわけではなかったので、正直驚きました。序盤いい走りしてるなというのは見ていて、後半は3人で走っていて日体大に置いていかれないでほしいなと思っていたんですけど、逆に歓太が前に出て、後続を離してくれたのでその走りを見て自分もやらないといけないと強く思いましたし、本当にうれしかったです。
――復路では唯一の4年生となりましたが、それについては何か感じていらっしゃいましたか
それについては特にありませんでしたが、同じ4年の河合(祐哉、スポ4=愛知・時習館)に代わって僕が10区を走ることになったので、河合の気持ちも一緒に背負って走らないといけないなというのは思いました。走る以上、河合に自分が走っていればという気持ちにはさせたくないと思いました。往路を走った4人の気持ちだけじゃなくて河合やマネージャーの2人の分の気持ちを背負って大手町までタスキを届けようと思っていました。
――河合選手からは何か言葉はありましたか
交代が決まってから冗談で、「ここからケガをしたら怒るからね」という話はされたんですけど、とりあえず応援に行くから頑張ってという話をして、スタートしてからすぐにいてくれました。特に直前にいっぱい話したというわけではなかったです。かないませんでしたが、2人で走りたかったという気持ちがあったので河合の気持ちを背負って走ることが自分のできることかなと思いました。
――相楽監督から事前に指示はありましたか
アンカーだったので区間順位は気にせず、前にも後ろにも差がないところにチームがいたので、まずは後ろから日体大が来ているけどそこは気にせず、前の東海大の選手も力のある選手だったんですけど、「お前が抜くしかないから、そこは積極的にいけ」というふうに言われました。風が強かったですけど、それはみんな一緒だから考えすぎるなと言われました。
――3位の東海大が見える位置でタスキを渡されましたがそれについてはどのように感じていらっしゃいましたか
正直、緊張するなと思いました。3番に入れるかが自分にかかっているなと思いましたし、後ろを見ても5番、6番もすぐに来ていたので重要なところでタスキをもらったなと思いました。
――清水選手とのタスキリレーでは言葉はありましたか
走る前にどんなにきつくても笑顔でタスキを渡そうという話はしていました。僕は確かナイスランと言ったんですけど歓太が何と言ったのかは忘れてしまって。ただ、今年度一番の笑顔ですごくいい顔をしていたのを覚えています。
――レースプランや10区のポイントがあれば教えてください
今までのデータを見ると、後半の10キロのタイムが落ちている選手は全体のタイムは良くなかったので、10キロまでは力を使わずじゃないですけど、10キロまででバテてしまって後半に急激な失速がないようにしようと思ったことですね。前に見えていた選手は力のある選手だったので、一気に10キロまでに詰めようというのではなくて、10キロまでは差が変わらなくても、後半チャンスがあれば前がきつくなってから詰めようと思っていました。その前に前と結構開いてしまって、そこが自分の思い描いていたのと違ってまずいなと思いました。
――東海大の選手のペースが最初かなり速かったということでしょうか
そうですね。結構どんどん差を広げられてしまって、30秒以上10キロで空いたかなという感じです。風があまり得意ではなかったというのはありますが、正直結構焦りました。10キロぐらいで前が見えなくなってしまって。
――後続の日体大がかなり迫っていましたが、気づいていましたか
途中、ボードもあんまり見えなくて、わからなかったのですが、沿道の人の声と中継車が入ってきたので、これ後ろに誰か来ているのかなと思ってチラッと見たときに、すぐ後ろに人がいたので来てるなと思いました。
――2秒差まで詰められましたが、その時の心境を教えてください
やばいと思うと同時に、さすがに相手は僕より10キロを1分くらい早く突っ込んでいると思ったので、無理はしているなとも思いました。やっぱり1回追いつかれてしまうと相手も元気になってしまうというのと、ちょうどたまたま放送車が来てくれて風よけになって楽になったので、追いつかせずに苦しかったですが、ペースを上げてみようということで上げました。
――そこからは追いつかれずに徐々に引き離されましたが、その時は
ずっと風が向かい風だったんですけど、15キロぐらいで左に曲がって少し向かい風が落ち着いて楽になったので、逃げるならここしかないかなと思って。本当にきつかったですが、上げたペースでそのままいきました。
――後ろの日体大に関しては常に気にしながらということでしょうか
そうですね。ずっとすぐ後ろのいると思っていたので、怖かったですが、振り返ったときに前にスパートをかけられて置いていかれたらいやだなと思ったので、後ろを見ないようにしていました。途中で中継車がどこかに行ったので、これは後ろもきついのかな、抜ききれないのかなというふうに思っていました。
――中継車は状況を知るのに役立ったということでしょうか
そうですね(笑)。結構使ってました。中継車が来て、これはだれか来てるなと思って、どこかに行って、後ろきついのかなと。とっさに考えていました。
――給水は中山智裕マネージャー(スポ4=長野・佐久長聖)からでしたが言葉は掛けられましたか
「頑張れ」という言葉をもらいました。中山にはずっとお世話になっていて。きつかったので中山に何も言ってあげられなかったんですけど、「最後だから頑張れ」と言ってもらってうれしかったですし、中山とは仲が良くてずっと一緒にいる存在だったので、中山の分までやらないと、と思いました。
――力になりましたか
はい。うれしかったですし、1番給水に来てほしかったので。
――ラスト1.5キロで東海大を逆転されましたが、東海大失速の情報は入っていましたか
いえ、まったく入っていませんでした。左に曲がってから20キロまでずっと直線なんですけど、最初は全然見えていなくて。20キロ手前くらいになったときに前の監督車が思ったより見えて。一瞬、別の車かなと思ったんですけど、よく見たら東海大の選手もいたので、きついのかなと驚きました。距離はあったんですけど、どんどん近づいてきたのでこれはもしかしたらいけるかもしれないと思って、元気が出ました。
――相手の動きを見て、失速しているなというのはわかりましたか
抜いたときにすごく(ペースが)落ちていたなというのはわかりました。ただここで一気にいかないと日体大に食われるなというのは思ったので迷わず抜きました。
――どのあたりでこれは抜けるなと感じられたのでしょうか
抜く500メートル前も正直まだ差はあって。これはもしかしたらぐらいに思っていたのですが、走るごとに距離がものすごく詰まるので。川端君(千都、東海大)はすごく力のある選手なので、アクシデントかなと思って。20キロまで30秒以上差があったと思うのですが、そこから1.5キロで詰まって気づいたら抜いていたという感じですね。
――併走になりそうな感じではなかったですか
まったくなかったです。さすがにきつくてもついてくるかなと思って、ついてこられたらどうしようかなと考えていたんですけど、まったく抵抗する気配もなくて。アクシデントかなと思ったのですが、ここで油断したら日体大にやられるというのがずっと頭の中にあって。そこは切り替えて。追われている立場なので。
――抜いたというより追われているという感覚が強かったのでしょうか
そうですね。後ろを見ていなかったので、ずっと3、4秒差で(日体大が)いると思っていて。日体大がいつでもすぐに来るなと思っていたので、抜いたんですけど、あまりそこは考えず、3番に上がったことも頭になくて。とりあえず逃げないと、と思って走っていました。
――大手町では待機していたチームの皆さんが谷口選手を呼んでいましたが、聞こえていましたか
いえ(笑)。歓声が大きくて、聞こえなくて。テレビとかを見てあんなふうになっていたことを知りました。うれしかったです。
――ゴールする際にユニホームの『W』に手を置くしぐさをされましたが、あれはどういう意味があったのでしょうか
ことしのワセダはやばいという話を聞いていて。『W』のユニホームはちゃんと健在だぞという意味で『W』のところに手を当てたんですけど、「もう少し派手にやればよかったね」って鈴木皐平主務(スポ4=愛知・時習館)から言われました(笑)。
――スッとゴールされたように見えました
ゴールするときも日体大が真後ろにいると思っていたので、余裕がなかったです。
――ゴールしたときはどのようなお気持ちでしたか
夢かなと思いました。自分、箱根を走ったんだと思って。しかも3番というのが自分でもうまく受け止められなくて。何が起こったかよく分からないような状況だったんですけど、皐平と安井(雄一駅伝主将、スポ4=千葉・市船橋)が来てくれて。4年間終わったんだなというのを感じて寂しかったのとお世話になった2人がすごく喜んでくれたので4年間きついことが多かったけど、やってきてよかったなと思いました。
――4年間きついことが多かったというのはなかなか結果が出ずということでしょうか
そうですね。ケガがすごく多くて。2年生のときはケガばっかりで。高校生の時と比べてもタイムも全然出ないですし、同期がどんどん駅伝に出ていく中で自分は駅伝のメンバー争いにも絡めないという時期が長くて。初めて陸上が嫌いになりかけたんですけど、何とか周りの支えもあってやってこれてよかったなというのはありました。
――周りの支えがかなり大きかったということですね
そうですね。同期は普段からアドバイスをくれたりとか自分がダメなときにはもっとこうしたらいいよということを言ってくれたりしていて。安井とかはことしはずっと練習とかトレーニングとかを一緒にやってくれたりして。本当にうれしかったですし、自分1人だったらあの舞台に立つことはできなかったのかなということを改めて感じました。
――安井主将と鈴木主務に駆け寄られて、その時に何か言葉を掛けられましたか
ずっと泣きながら「ありがとう」と言われて。でもこっちがありがとうだったので逆に僕も「2人がいなかったらこの場に立てなかったからありがとう」という話をしました。
――レース中は始終苦しそうな表情をされているようにお見受けしましたが、ずっと苦しかったのでしょうか
はい、ずっと苦しかったです。正直もう3キロぐらいからずっと苦しくて。向かい風と緊張の影響もあったのかもしれないんですけど、集中練習と体の感じ方が違って。あんなに序盤から苦しくなって駅伝は初めてなんじゃないかというくらいすごくきつかったです。
――総合3位という結果についてはどのように感じていらっしゃいますか
優勝を目指してきたので、100点満点と言えるかと言われたら分からないですが、全員がいまやれることを100パーセント出した結果かなというように思いました。全日本(全日本大学駅伝対校選手権)もこれで予選会免除で出られるかもしれないので、もしそれがかなったら、後輩たちにも何か残せたんじゃないかなと思います。
――走っているときは箱根で3位に入れば、全日本の予選会が免除されるかもしれないというのは考えていたのですか
それはちょっとは思ったんですけど、走り始めてからは頭が真っ白じゃないですけど、前を抜かなきゃという気持ちで。最後の最後でこのまま3番でいけばそうかなって一瞬思って。絶対抜かれたらいけないと思って走りました。
――区間8位という結果についてはどのように感じていらっしゃいますか
区間順位は正直あまり良くないですが、僕自身競技はこれが最後でしたし、チームメイトがあんなに喜んでくれたということに代わるものはないと思っているので、自分に100点をあげたいと思います。
――箱根、学生三大駅伝は今回が最初で最後でしたが、箱根路というのはどのような舞台でしたか
人が多いなというのが率直な意見で、こんなに人がいるんだなというのと周りのみんなはこんなにすごい舞台で戦っていたんだなというのは走り初めに思って。終わってからも小学校のときの友達とかからも連絡が来て、箱根っていうのはすごく注目されている大会なんだなというのを終わってから感じました。
――走っているときは苦しさとは別に楽しさはありましたか
走っているときは苦しさだけで、ゴールしてから箱根はよかったなと。後ろが怖くて、怖くて、まったく楽しめる気持ちがなくて。前も落ちてきて必死だったので、怖かったというのとゴールテープを切ったときにやってきてよかったなという安心感とかが出てきて、忘れられない舞台になったなと思います。
――監督車からかけられた言葉で印象に残っているものはありますか
相楽さんも途中僕が抜かれる前提で話をされて(笑)。抜かれてからついていけみたいな話をされて。結局抜かれなかったのでそこから油断させないためか、そんなに声を掛けられなくて。残りの1キロで「お前はラストを持っているんだから、お前を10区で使った意味をここで出してほしい」ということを言われて、最後きつかったんですけど、わかりましたと。
「エンジのユニホームはみんなの誇りなのかなと思います」
最終10区で順位を3位に押し上げた谷口
――陸上を始められたきっかけというのは何でしたか
陸上部が当時弱かったんですけど、中学校2年のときに部員が足りないからやってみないと言われて。僕は全然速くなかったので、普通の中学校だったら誘われもしなかったと思うんですけど、当時本当に(陸上部が)弱くて。僕でも使えるかもしれないということで誘ってもらって、兼部という形で陸上部に入りました。箱根に出てやろうという感じで陸上を始めたわけではないのです。
――囲碁将棋部に入られていたと
そうなんですよね(笑)。きっかけを聞かれて、中1のときに囲碁将棋をしていたんですけどという話をして。それで終わりなんですけど、アナウンサーの方がすごくびっくりした顔をしていて。そんなに驚くかなと思っていたら、ずっとやっていたみたいなことになっていて。1年しかやっていないんですよね(笑)。
――実況でしっかり囲碁将棋部と言われていたのですが、反響はありましたか
ツイッターを見ていたら、すごく囲碁将棋部と書かれていて。しかも高校のときまで将棋やっていたことになっていて。いや、それはないよと思ったんですけどね(笑)。地元の人とは高校のときに長距離でインターハイ(全国高等学校対校選手権)に出ているのにねという話をして。笑い話になりました。
――早大に進学した時は陸上競技のことは念頭にありましたか
ありました。もともと高校が進学校で勉強ができる環境に行きたいということと、当時は5000メートルのタイムも15分切れるか切れないかぐらいの選手で、陸上を大学でやれるレベルなのかなと思っていました。たまたま九州大会に光延(誠、スポ4=佐賀・鳥栖工)とかが出ていて、渡辺康幸前駅伝監督(平8人卒=千葉・市船橋)もいらっしゃっていて。その時に高校の先生が話をしてくれたのか、声を掛けていただく機会がありました。勉強で入ってきて、早大で陸上をやらないか、待っていますということを言ってもらって。その時から早大で陸上をやりたいなと思い始めて、そこから陸上の成績も上向いたかなというのはあります。早大に入って、競走部で競技を続けるというのは高校3年の夏ぐらいから急に頭の中に出たことですけど、それが可能なら自分も早大で競技をやりたいと思ったので、早大に行きたいと思いました。
――それまでは全く考えていなかったということでしょうか
自分が大学で競技が続けられるレベルなのかなという感じで、勉強をしっかりやれるところに行きたいと思ったので、地元の国公立の大学を受験するのかなと思っていました。
――競技を続けるかどうかもよく分からないという状況だったということでしょうか
その日にインターハイが決まって。憧れの存在である渡辺さんもいらっしゃって。その日に早大に行きたいなとコロッと変わりました(笑)。一瞬で変わりましたね。
――早大の競走部に入ろうと思った時に駅伝のことは考えていたのでしょうか
はい。走りたいなと思いましたし、今のままじゃだめだと思いました。
――競走部での4年間はどのようなものになりましたか
さっきと重複しますが、1、2年生の時は苦しくて。練習したらケガをする、ケガが治ってもまたケガをするという感じで。高校生の時までは挫折というのを味わったことがなくて、練習すればするだけ成績が伸びていたんですけど、逆に練習するほどケガをしてしまって。どうやって強くなったらいいかが分からない時期があって、悩んでいました。大学の3年生ぐらいから、大学から始めたトレーニングや動きづくりが実を結んで、練習をしてもケガをしない体になってきて、3年の終わりぐらいから形になってきたかなという感じです。
――メンタルトレーニングのリーダーをされていたとお伺いしたのですが
リーダーかどうかは分からないのですが(笑)。相楽さんの同期のメンタルトレーナーの方が来てくださっていて。その方には前から何回かセッションを受けたことがあり、それまでは不定期だったのですが、定期的に1か月に1回やらないかという話をいただきました。河合も一緒にやっていて、「お前ら2人が1年生、特にCチームとか自分が1年生だったときのような子たちがいるので、そういった子を誘って一緒に受けたりとか、もっと周りを巻き込んでいろいろやっていったほうがいいんじゃないか」ということを言われて。自分だけじゃなくて、後輩にも声を掛けたりして、今までは河合と2人でやっていたものを後輩も含めて6人、8人でやるようにするという取り組みはやっていました。
――どのような効果を感じられましたか
正直なところ、自分の中でしっくりくるものとこないものがありました。1つ自分が変わったことがあるとすれば、今回もそうなんですけど、自分は結構緊張しやすいタイプなので、大学に入ってからプレッシャーなのかは分からないのですが、試合で結果がまったく出ない時期があって。練習ではできているのに試合ではまったく結果が出ないというのが苦しかったんですけど、その時に緊張を抑え込もうとしすぎるんじゃなくて、逆に緊張していることを認めてあげるというか。考え方の転換という話なんですけど、そういうのをやってみようということになって。その話を聞いてから、緊張する舞台だった関カレ(関東学生対校選手権)も感情をコントロールできるようになったというか。3年の頃から上がりすぎて力が発揮できないことがなくなったので、そこは一つの効果だったのかなと思っています。
――先日、渕田選手(拓臣、スポ1=京都・桂)にインタビューさせていただいて、チーム内で印象に残った選手を伺ったところ、谷口選手を挙げられていました
お世辞ですね(笑)。渕田とは夏合宿から同じ宿舎で練習してきて、ときには厳しいことを言ってしまったこともあったのですが、今できる最大限のことを1月3日にやってくれたと思います。これから練習を積んで、万全の状態で臨めばもっといい結果が出ると思っているので彼にはすごく期待していますし、後輩からそういうことを言ってもらえるとうれしいですね。
――後輩の皆さん、特にBチーム、Cチームの後輩の皆さんに一言お願いします
きつかったり、苦しかったりというのはあると思うんですけど、自分の信念を曲げずにコツコツやるというのが箱根の20キロという距離には生きるということを学びました。後輩には楽しみな子がたくさんいて、箱根だけじゃなくて、全日本、出雲(出雲全日本大学選抜駅伝)、もっと言えば関カレから上に絡んでくる選手がいっぱいいるんじゃないかなと思っているので、活躍をOBとして楽しみにしています。力はあって、誰が出てくるのかなというのを楽しみにしているので、頑張ってください。
――特に期待されているのは誰ですか
Bチームでいうと、遠藤(宏夢、商2=東京・国学院久我山)、真柄(光佑、スポ2=埼玉・西武文理)、三上(多聞、商2=東京・早実)はすごくしっかり練習もやってくれましたし、ことしは3人とも夏にケガをしてしまったことが原因で、駅伝シーズンは不本意な結果で終わってしまったと思うんですけど、この三人がケガせず練習を積んだら、ハーフで63分台とかを出して、箱根でもガンガン戦ってくれるんじゃないかなと思ってるのでこの三人には特に期待しています。後は西田(稜、政経3=東京・早大学院)はすごく夏は調子が良かったんですけど、ことしはまた箱根の前にケガをしてしまって、もったいないことが多かったんですけど、最終学年としてあいつの意地を見たいです。
――同期の皆さんに一言お願いします
同期のみんなには支えられてばかりの4年間だったなと思います。感謝の気持ちしかないですし、最後にみんなに何か返せるものができて嬉しかったです。実業団に行く選手は応援していますし、これからも仲のいい同期でいたいなと思っています。
――部員日記に中山マネージャーと鈴木主務に感謝を伝えられるような走りをしたいと書かれていたのを拝見しましたが、それについてはご自身ではそのような走りができたと感じられていますか
皐平が最後すごく喜んでくれたのがうれしかったですし、中山もすごく喜んでくれて。二人に対しては罪悪感もあったので、そこは最後二人を手ぶらで卒業させることはなかったんじゃないかなと思っています。
――競技からは引退されるということですが、市民ランナーになるご予定などはありますか
まったく分からないですけど、まだ走りたいという気持ちはあるので、仕事の合間を縫って、走りたいと。職業柄、陸上選手に関わる機会はあると思うので、代わりに仕事で会いに行けたらいいなと思います。
――最後の質問になりますが、谷口選手にとってエンジのユニホームというのはどのようなものでしたか
やっぱり誇りだと思います。誰でも着られるユニホームではないと思いますし、今まで多くの偉大な先輩方が着てきたユニホームなので、そのユニホームに袖を通せるというのは誇りあることだと思います。着る以上は中途半端な結果は許されないですし、エンジのユニホームはみんなの誇りなのかなと思います。
――ありがとうございました!
(取材・編集 佐藤詩織)
◆谷口耕一郎(たにぐち・こういちろう)
1995(平7)年9月29日生まれ。172センチ、52キロ。福岡大大濠高出身。スポーツ科学部4年。自己記録:5000メートル14分14秒75。1万メートル30分25秒20。ハーフマラソン1時間04分09秒。2018年箱根駅伝10区1時間12分35秒(区間8位)