チーム全体で戦う集団を目指して
「チーム全体で戦う集団にしていきたい。背中で引っ張るエース的な存在になりたい」――。1年前、そのような抱負をもって高田康暉(スポ=鹿児島実)は駅伝主将に就任した。主将としてのラストシーズン、自身は厳しい1年となったが、最後の東京箱根間往復駅伝(箱根)では自身、そして仲間の不調をチームの力で支えたことに、主将としての嬉しさを感じられたと言う。
そもそも高田が陸上を本格的に始めたのは中学2年生の時。それまで休日は硬式野球、平日は陸上競技というかたちをとっていたが、最終的に陸上に絞ると決めた。その後は鹿児島実業高校に進学し、同校で全国高等学校駅伝競走大会の初優勝メンバーとなるなど、充実した3年間を過ごした。高校入学当初から早大を志望していたという高田は迷わずに早大に進学。そこには竹澤健介(平21スポ卒=現住友電工)や大迫傑(平26年スポ卒=現ナイキ・オレゴン・プロジェクト)のような世界で活躍する選手への憧れがあった。
3年連続で『花の2区』に出場した高田
ワセダに進学後、1年目から期待のルーキーとして出雲全国大学選抜駅伝(出雲)、全日本大学駅伝対校選手権(全日本)とエンジのタスキをつなぎ、このまま箱根出場も濃厚とされていた高田。しかし区間発表の際に高田の名前はなかった。人生で初めて駅伝を走れないという経験。高田はこの時のことを「来年は主要区間で活躍してやると気持ちを乗せることができた」と前向きに振り返っている。そして実際に翌年の箱根では各校のエースがそろう『花の2区』に起用され、見事区間賞を獲得。高田にとって自信となった。
そして今季、1年時からやると決めていた駅伝主将に就任。エースとはすなわち主将というイメージがあっての立候補だった。主将となった高田は『周りに見られる自覚』が芽生えたという。しかし高田はケガに悩まされることとなった。主将としての自覚が、全ての大会で結果を出さなければいけないという意気込みを生み出し、高田のマイペースさを崩してしまったのだ。そして出雲と全日本の出場を回避し、万全な状態で箱根に臨むことを決心する。練習以外の生活でもケアのことを考えた。「1日でも早くケガを治して復帰したいと必死だった」。そんな高田を支えたのは渡辺康幸前監督(平8人卒=現住友電工監督)や相楽豊新監督(平成15人卒=福島・安積)の存在だったという。チームへ恩返しするためにも良い走りをしたいと挑んだ最後の箱根であったが、後半の失速で区間17位と納得のいく結果で終えることはできなかった。
しかし、高田の走りをカバーしたのはチームの底力だった。今季の箱根、ワセダはエース不在の中で高田の失速、前回6区区間賞獲得の三浦雅裕(スポ=兵庫・西脇工)の欠場という、シード権を落としても不思議ではない場面がいくつもあった。そのような状況での箱根総合4位。これは高田が当初目指していた、チーム全体で戦う集団だからこそ成し得たものだろう。早大競走部という歴史のあるチームで主将を務めあげた高田。これからは渡辺前監督や竹澤OBもいる住友電工で世界を目指していく。次の抱負は日の丸をつけることだ。ワセダから世界へ――。高田が夢見てきた世界の舞台には何があるのだろうか。高田の陸上人生はこれからも続く。
(記事 朝賀祐菜、写真 榎本透子)