【連載】『箱根路の足跡』第9回 柳利幸

駅伝

名門・早大競走部の門をたたいたのは陸上を始めてわずか2年目のこと。その類いまれな才能が開花するのに時間はかからなかった。1年時から東京箱根間往復大学駅伝(箱根)に出場し続け、ことし、ついに迎えた最後の箱根路。結果は総合4位とけして満足のいくものではなかった。しかし、柳利幸(教4=埼玉・早大本庄)の競技人生はここで終わりではない。あれから一ヶ月、柳はあの舞台を振り返り、何を思うのか。

※この取材は1月29日に行われたものです。

「箱根だけは何がなんでも出てやる」

4年生は一丸となって箱根路へ挑んだ

――箱根が終わり、今の練習はどのようにされていますか

今は実家に戻っていて、ロードで練習をやったり、あるいは高校の部活の友人がまだ陸上の練習を続けているので、そういった仲間たちと一緒に隔週ですけど練習をやっています。

――現在のコンディションはいかがですか

直後は疲労もあったのですが、今は箱根が終わってから2週間ほど時間が経って、そういった疲労は抜けてきています。4年間やってきた分、蓄積された慢性的な疲労というのは抜けていないかもしれないので、そういったところと練習の強度を見合わせて今は練習をしている感じです。

――では、今年度の駅伝シーズンのお話に移りたいと思います。まず、全日本大学駅伝対校選手権で出走がかなわないといったこともありましたが、どのように箱根に気持ちを切り替えていきましたか

全日本で自分が出走できなかったということで。それまでは自分はエントリー自体1年生の時の出雲(出雲全日本大学選抜駅伝)からずっとされていて、その次の全日本からはずっと連続で出場もさせていただいていたのですが、今季の全日本で初めて出走がかなわなくて。やはりどこかで慢心が、出られる、走れるという慢心があったのかなと。そういう意味で(全日本に出走できなかったことは)自分の中で刺激になって、箱根だけは最後の4年生の背中というか、走りを見せられる機会だったので何がなんでも出てやるという気持ちで集中練習などに臨みました。

――全日本のメンバーに入らなかったことで、チームメイトからも目の色が変わった、と言われていましたが

そうですね。全日本当日は3区か5区を走るという気持ちで調整をしていたのですが、メンバー発表の時に(自分の名前が)呼ばれなくて、監督に「お前はまだ本調子でないから休んでおけ」と言われて。そこで悔しくて泣いてしまって、そこが一番自分の中でのターニングポイントというか、自分の中で心を入れ替えてやってやるぞという気持ちになりました。

――箱根前の集中練習を振り返っていかがですか

僕は1年生のころからずっと集中練習に参加させてもらっていて、集中練習の中で何回かある、ふるい落としの意味も込めた、長い距離から最後どこまで粘れるかという練習でいつも後ろの方を走っていたのですが、今年度の集中練習を見てみると、ほとんど先頭の方でしっかりとチームを引っ張りながら練習がこなせていました。そこは自分の中でも4年間やってきて成長したなという部分でしたし、最後の集大成に向けて自分の中でも気込みが強かったのかなというのは感じます。

「自分の成長につながった4回の箱根だった」

――箱根の初日、往路の5位という結果をどのように受け止められましたか

前日の刺激もあって、1区と2区を見てから練習に向かうというスケジュールで練習をしていたのですが、同期の高田が2区で、本人も不本意であったと思うのですが、失速をしてしまって。それを見たときは4年生がしっかりしなくちゃいけないと思って練習に向かいました。それから帰ってきてテレビを見たら、後輩たちが頑張ってくれていて往路を5位で走り終えてくれていたので、自分としては、もうやるしかない。4年生としての意地というか、4年生の失速は4年生で返さなくてはいけないと思いました。後輩たちが頑張ってくれていたので、そこはしっかりしなくてはならないという思いで準備をしていました。

――同期の選手の走りはいかがでしたか

信一郎(中村、スポ4=香川・高松工芸)は僕よりも先に4年生としての意識が芽生え、それを自分の走りで表現できていてさすがだな、と。箱根でも先頭と1分以内でしっかり走ってくれて。「やっぱりこいつは強いな、頼れるな」というのを強く感じました。高田に関しては2年生の頃から連続で2区ということで、重い責任を背負わせてしまっていたなと。今季高田は三大駅伝には箱根以外出場していないのですが、おそらく高田の中でもそういった面で不安要素がある中で走らせてしまいました。2区を走れる実力が高田以外の選手になかったのかなということを思うと、本当に重荷を背負わせてしまったなと感じます。

――同じく4年生の三浦雅裕選手(スポ4=兵庫・西脇工)は突然の足の痛みで出走がかないませんでした

僕がそれを知ったのが、僕が8区の中継所の近くの宿舎に行って夕食を食べているときに、付き添いをしてくれていた人から聞いて。正直驚きと動揺がありましたね。往路の結果を見て、これなら俺と三浦でしっかりと取り返してどうにか3位以内には入ってやろうという意気込みでいたので。

――8区に決まったのはいつですか

確定したのは前日ですね。1週間くらい前から8、9区で準備しておけと言われていて、自分としては個人的な思いでは昨年早稲田記録を出せた9区に出たいなと。自分の中ではもっと区間記録にも迫れるような記録を出したいと思っていたのですが、監督からはそういうことよりもチームの勝利を優先してほしいと言われ、自分の主張よりも4年間お世話になったチームに対してやれることをしっかりやろうと思って。前日に言われましたが、その時にはもうやってやるぞという気持ちしかなかったです。

――8区は1年時にも走られていますが、違いはありましたか

やはり前半のペースがまるで違いました。1年生から4年生の間で成長したなというところがありましたね。1年生のときは右も左も分からず箱根に出させていただいて、ちょっと怖がって前半ペースを落とし区間2桁という走りをしてしまったのですが、今回は前を追う走りがしっかりできたのかなと自分の中では思っています。

――タスキ渡しの際には、どのようなことを考えていましたか

前日に急きょ山下りになった佐藤(淳、スポ3=愛知・明和)と2年生の光延(誠、スポ2=佐賀・鳥栖工)がつないできてくれたタスキを、自分の所でいかにいい位置にもっていくかということと、あとは「これで俺の箱根、大学の陸上生活が終わるんだ」というような思いがぐちゃぐちゃに混ざって、よく分かんなかったですけど(笑)。光延が最後ラストスパートしてきた時には、こいつらとタスキをつなぐのも最後だなと思いながらタスキを受け取りました。

――9区では井戸浩貴選手(商3=兵庫・竜野)が区間賞を獲得されましたが

もう言うことなしというか、素晴らしい走りでした。区間記録とか、去年の僕のタイムと比べると少し遅れているのですが、当日の天候は暑かったですし、前を追うといっても難しい状況で、慌てずに走って区間賞を取ってくれたというのは先輩である僕としても嬉しいと思っています。

――柳選手は今年度の4年生としては唯一箱根に4年間皆勤しました

2区で区間賞の経験のある高田や、6区元区間記録保持者の三浦だとか、あるいは信一郎だったりとか、そういう強い選手がいる中で4年間走らせてもらえたというのはスポーツ推薦ではない僕としてはとても自信になりましたし、4年間を彩ってくれた、自分の成長につながった4回の箱根でした。

――今回で最後の箱根路となりましたが、今のお気持ちはいかがですか

結果は求めていた順位よりは程々遠いものだったんですが、個人としては最後しっかり走り終えてやりきったという感覚と、後輩たちに最後まで面倒をかけてしまったなという2つの気持ちがありましたね。

――青学大が完全優勝を成し遂げましたが、何か思うことはありますか

正直悔しいですね。前年の箱根からたくさんの選手の報道などがありましたが、その強い青学大を崩してこそ自分たちが走った意味があるというか。そういったことを思って1年間練習してきたのに負けてしまったということを考えると、まだまだ追い込めるところは多少なりともあったのかなと思いますし、最後は優勝で締めくくりたかったなという思いは強くあります。

「打ち込める時間があるうちは、打ち込めるだけ打ち込んでほしい」

8区区間3位の走りで、4位の位置を確固たるものにした

――では、今後のお話に移りたいと思います。まず、今後は日立物流で競技を続けるとのことですが、日立物流に決めた理由は

僕のもとにお話が来たのが3年の冬だったのですが、実業団のコーチの方は2年の全カレ(日本学生対校選手権)から渡辺康幸前駅伝監督(平8人卒=現・住友電工監督)にプッシュしていていただいたということなのですが、直接お話しした時に「やっと会えたね」と言っていただいて。そこから今後どうしたいかという話をしているうちに、日立物流ってまだできて間もないというか、他の実業団と比べると歴史が浅い実業団なんですが、その話の中でコーチの方が「僕たちと一緒に強くなろう」とおっしゃって下さって。この実業団なら自分の目標とチームの方向性は合致しているし、一つ上に田口大貴先輩(平27スポ卒=現・日立物流)という兄貴分みたいな先輩もいるので(笑)。そのワセダ卒の二人で、もっと世界規模の大会だとかニューイヤー駅伝なども盛り上げていけたらいいなと思い(日立物流に)決めました。

――他の実業団からも声がかかったかと思うのですが、最終的に日立物流に決めたのはいつ頃でしたか

早かったですね。もう3年生の3月の初めには自分の心は決まっていたので。

――実業団に入ってからの目標はありますか

東京オリンピックですね。2020年というとちょうど26、7歳のころで、そのあたりで競技者としてのピークが来るころなのかなと思います。そこでしっかりと結果を残せるような選手にならなければ大学を卒業してからも競技を続けた意味がないと思うので、まず目標はその東京オリンピックに出られるような強い選手になることがいまの目標です。

――トラックとマラソン、どちらで考えているのでしょうか

まだマラソンというのが未知の領域で、同期には服部勇馬(東洋大)とか小椋(裕介、青学大)といった選手がマラソンに挑戦していくと言っていたので、そこですでにマラソンに関しては出遅れているなと感じています。自分の中ではマラソンの距離というのはまだ考えられていないので、まずはトラックで大迫さん(傑、平26スポ卒=現ナイキ・オレゴン・プロジェクト)というワセダ卒の先輩の背中を追っていきたいなということを思っています。

――次のレース予定はありますか

年度内はありませんが、年度明けの4月からどんどん試合に出て記録を残して、まずは日本選手権でしっかりと自分の置かれている位置を見極めていきたいなと思います。

――後輩たちへメッセージなどがあればお願いします

上級生というと3、4年のことを言うじゃないですか。でも3年生から4年生に上がると、置かれる立場も見える景色も全然違ってくるので、まず次の4年生たちにはしっかり舵を取ってチームの姿勢をみんなで示して、一枚岩となって頑張っていってほしいなと思います。後輩たち全体には4年間は本当にすぐ終わってしまうものなので、遊びたいだとか、陸上以外で何かしたいという思いは当然学生だからあると思うのですが、打ち込める時間があるうちは打ち込めるだけ打ち込んで、後悔のないように競技を終えてほしいかなと思います。

――ワセダの強み、弱みは何だと考えますか

強みというと、すごく明るい雰囲気があって練習のオンオフはしっかり区切りが付けられているということかなと思います。陸上のことしか見えていないのではなくて、リラックスできるときはリラックスできるという雰囲気があるのはワセダの強みというか。監督とも距離が近いですし、言いたいことも言い合えるところだと思うので。弱みというとやっぱりどこかしらで、ワセダだから勉強もしなくてはいけないというような学業の面で競技の方を妥協してしまうというところがあったかなと。ワセダなら卒業後も安泰というか、そういうことを考えてしまっている選手も少なからずいるのかなというところが、必死さというか、自分の人生を懸けて(競技を)やっているという感覚がちょっと足りないのかなというのが見受けられたかなと。

――最後に、ワセダでの4年間を振り返ってみていかがですか

高校2年生の冬に陸上を始めて、まさか自分が伝統と歴史のあるワセダの競走部の門をたたいて、1年生の時から箱根も出場させていただいて。途中いろいろな挫折というか、紆余(うよ)曲折あったと思うのですが、本当に自分の成長につながった4年間でしたね。いろいろな人の巡り合わせがあって今の僕があると思うので、そういう人たちに感謝してもしきれないような4年間でした。

――ありがとうございました!

(取材・編集 佐藤亜利紗、平野紘揮)

◆柳利幸(やなぎ・としゆき)

1993(平5)年4月23日生まれのO型。172センチ、57キロ。埼玉・早大本庄高出身。教育学部教育学科4年。自己記録:5000メートル13分47秒96。1万メートル28分48秒50。ハーフマラソン1時間3分04秒。2013年箱根駅伝8区1時間7分49秒(区間14位)。2014年箱根駅伝7区1時間4分29秒(区間5位)。2015年箱根駅伝9区1時間9分32秒(区間4位、早大新記録)。2016年箱根駅伝8区1時間5分29秒(区間3位)