【連載】『集大成』 第11回 高田康暉

駅伝

 前回の東京箱根間往復大学駅伝(箱根)、2区・区間賞という華々しい箱根デビューを飾った高田康暉(スポ3=鹿児島実)。しかし、直後にケガに見舞われ、試練の1年を過ごすことになった。そんな今シーズンを高田はどう振り返るのか――。その胸中に迫った。

※この取材は11月26日に行われたものです。

箱根で得た自信と自覚

取材に応じる高田

――まずは前回大会のお話から伺っていこうと思います。2区区間賞でした。その感想を教えてください

正直、箱根を走る前は区間賞を狙っていたというよりは大迫さん(傑、平26スポ卒=現・日清食品)が絶対トップくらいで来ると思っていたので、それをしっかりキープできるようにという思いで構えていました。いざレースになってみるとちょっと出遅れて中継所に来たので、無心で前を追っていったら結果区間賞を取れたという感じでした。本当に取れるとは思っていなかったので、周りの失速やアクシデントもあったんですけど、取れたことは自信になったと思います。

――どのようなところが良かったのでしょうか

調子も上がってきていて、どんどん前に前半からもっと突っ込めた部分もあったんですけど、冷静に明大の大六野さん(秀畝)についてそこで余裕を持ちながら走れたのではないかなと思います。

――前回大会以前は一人で走るのが苦手との話をよくされていましたが、そういった並走が有利に働いた部分はありますか

そうですね。一人で前を追ったところも何度かあったんですけど、やはり人を使うのが自分は得意な部分もあるので。逆にあれをきっかけに単独走も少しはできるようになったということもあるんですけどね。その前は全日本大学対校駅伝選手権(全日本)も一人で走れなくて、後半他の選手を使って走れたという感じだったので、そういう意味では位置的にもすごくいい位置で走れたのが区間賞につながったのかなと思います。

――2区にエントリーが決まったのはいつごろでしたか

夏合宿の練習に僕と何人かが、大迫さんが海外に行っているので、2区はずっと意識して走れ、練習しろということをずっと言われていました。僕自身もずっと2区というのが目標でもありましたしそういうイメージでいたんですけど、上尾シティマラソン(上尾ハーフ)が終わってから2区で行けるのではないかと思い始め、集中練習が始まる頃には2区を意識した話を渡辺康幸駅伝監督(平8人卒=千葉・市船橋)などともしていました。確実にわかったのは、集中練習が終る最後あたり、12月20日くらいにお前は2区で行くという話をされました。

――では箱根のあとにケガをされてしまうわけですが、ケガの期間、競技についてはどのようなことを考えていましたか

2区区間賞を取って、今シーズン描いていた自分というのが、日本選手権で入賞したり、もちろん関東学生対校選手権(関カレ)や日本学生対校選手権でも表彰台に上がったりという自分だったので、やっとここのスタートラインに立ったところでうまくいかなかった自分を責めるような、悲観的というか、なんで俺なんだよ、的な(笑)思いがありました。やれることはしっかりやりながらやっと走れるようになってきた東京六大学対校大会でまたケガをしてしまったので、腐れるということはなかったんですけど、やはり考える時間があったらそういう自分の中で言い訳ではないですけど、そういう気持ちがありましたね。関カレで日産スタジアムであった5000メートルを見て、上位が皆、村山さん(謙太、駒大)や大六野さん(秀畝、明大)、服部(勇馬、東洋大)というような2区で戦った選手たちで、彼らが戦っていたのを見て、自分は何をしてるんだろうという思いになりました。ちょうどまた走り始めた時期でもあったので、そこで自分の中でもいままでの自分は何をしていたんだろうとやっと気づけて、そこからしっかりこのままケガしている関係なしに早く追いつきたいな、あそこで戦いたいなという思いがあったから、もう一回立ち上がれたかなと思います。

――ケガというのは箱根後すぐでしたよね

そうですね。正直集中練習から痛みがあって、箱根が終わって検査したらすでに折れていた、疲労骨折していたということだったので、箱根もたぶん折れていたのではないかという(笑)。

――関カレの話でも出ましたが、やはり2区で走ったことが今シーズンご自身にとって大きな意味を持っているのでしょうか

そうですね。2区の区間賞がおごりになるとかは一切なくて、逆に自分がダメなときもあそこで走ったんだから行けるだろうという強みになっています。そういった意味では、1、2年でガッツリ練習しても試合で結果が出ていなかったのが、3年目結果が出ているわけではないですが、それなりにいまの状況で5000メートルだったり1万メートルだったりという試合をしっかり走れるようになってきました。もちろん全然満足に走れていない悔しさもあるんですけど、最低限ちょっとずつ良くなっているのも2区区間賞という自覚があるからなのではないかと思います。

――練習ができなかったときのチーム状況を客観的に見ていてどのように感じていましたか

練習ができているチームではあるんですけど、トラックシーズンを外から見ていても、合宿などのデータも見ていても、しっかり練習はできているんですけど、俺だ!という選手がいないなというのはすごく感じました。岩手合宿もとても良い練習ができたと聞いていて、見たタイムも自分も過去行っている場所なのですごいなと思ったんですけど、生ぬるいというか、厳しさが足りないと思いました。先頭で3、4人一緒にゴールするみたいなのが結構あったりしたりして、僕だったら絶対それが嫌で、絶対それは負けないぞ!みたいなのがあるので、まあいなかったのでなんとも言えないですけど、部内ではもちろん争うんですけど、外で戦う争いというよりかは自分が走るための、戦うためのというよりは走るための争いになっていたのではないかなと思いました。いざ全日本になってみて、もちろん自分の失敗がそうなんですけど、やはり全部見てそういうのもあったのではないかなと思ってしまいました。

――では、出雲全日本大学選抜駅伝(出雲)が中止になったことは客観的に見てチームに影響はあったのでしょうか

合わせているメンバーとしては、ずっと言われているようにすごく練習もできていたので、それを試せなかったという意味では、ちょっともったいなかったなと思います。どこの大学もそうだと思うんですけど、特にちょうど出雲にエントリーされたメンバーを見ても、修平さんと柳くらいしか外で戦うような選手、大舞台で結果も出しているという選手がいなかったので、それ以外がどういうふうに走るのかなというのが、本人たちが一番感じたと思うんですけど、試せなかったので痛かったと。やはりムード的にはないからどうというのはないんですけど、やはりあったほうが全日本には多少つながったのかなと思います。

陸上人生で一番悔しかったレース

――全日本の出走区間を知らされたのはいつ頃でしたか

エントリーがことしから変わったじゃないですか。4、5日前に提出だったんですよね。なので現地に入る前の、エントリーを提出する前、水曜日の練習が終わってから発表があってそのときに2区と言われました。

――全日本の2区の役割とはどのようなものだったとお考えですか

大迫さんが4年間走っていて、その前も竹澤さん(健介、平21スポ卒=現・住友電工)がずっと走っていた区間なので、やはり全日本的にも2区はエース区間ですけど、ワセダ的にも頼るではないですが、2区でしっかり走ってそこから上で戦うという戦い方をしてきたと思います。優勝したときもやはりしっかり前のほうで戦ってというかたちなので、2区を走る選手はそれこそ大迫さん竹澤さんといった日本を代表する選手で、チーム的にも2区が走らないとワセダ的にもですけど、自分的にもダメだなと思っていたので、本当に一番流れを作るエース区間ということで、大事だと思っていたので、そういった意味ではやはり自分がやってしまったなと思いました。

――チームとしての目標は

駒沢の連覇を止めようということでした。渡辺さんも自信があると言っていましたし、自分たちもやっている練習としてはすごく自信があって、最悪3位にはしっかり入っていこうという感じでした。

――タスキを受け取ったときに意識したことは何ですか

とりあえず中間に青学大の久保田(和真)がいたので、青学大に早めに追いついて、そこから一緒に、どうせ服部がすぐ後ろにいたので、服部もすぐ付いてくるんだろうなと思いながら走り始めました。そしたらイメージ通り3キロから一緒になって走れたんですけど、それでもやはり自分の練習不足、合わせてきたという感じが出てきてしまいました。中盤も全然ペースは変わらなかったんですけど、前半突っ込んだ分、ぴたっと中間点過ぎたところで足が止まったので、完全な練習不足だなと。

――周りからは復帰戦と捉えられていたレースであのレースではまったく満足していないということですか

走るからには負けたくない、区間賞を取りたいというか。絶対に服部、特に服部と久保田には負けたくないという気持ちがありました。今シーズンだとやはり服部に対しての思いというのが強くて、彼はしっかりエースになっていて、箱根でも区間賞獲ったとはいえ、最後にはやられてしまったので、彼に対する僕の勝手なライバル意識があるので、そういった意味では完全に中間点から1分離されて本当に悔しかったです。チームの負けとシード落ちももちろん悔しいですし、しっかりやらなければと思ったんですけど、彼らに服部と久保田において置いてかれたということが、自分が陸上初めてから一番悔しかったので、どうにかしてやろうかなという気持ちでいまやっています。

――やはり他大の同学年というのは意識しますか

やはり服部久保田横手っていうのが、僕らの代のトップ選手というか、そのメンバーには絶対「負けたくない」という安易な気持ちではなくて、絶対「負けない」という気持ちが強いです。高校のときも最初は勝っていて、高校3年生にかけて離されて、彼らは大学1年生からデビューしていて…。そういう悔しい思いもしてきたので、ワセダでもありますし、ワセダのユニフォームで彼らに(他大の)エースに勝ちたいという気持ちです。

――では、駅伝だけでなく関カレなどのインカレで走ることになっても?

負けたくないですね。

――全日本のチームとしての敗因は何だったと考えていますか

敗因は早大長距離競技会で28分台を続出したりして、合宿もすごくできていきたという中で、確実に内しか見てなかったかなと。確実にそれだけではないかと思います。それこそさっきも言いましたけど、自分が走るためだけの、走って区間賞を取るとか他大に負けないという思いよりも、ワセダのユニフォームを着て走るという絵になることしか考えていなかったのであhないかなと思います。

――全日本が終わってから上尾ハーフというのはどのように過ごしていたのでしょうか

僕はチームどうこうというよりも自分の問題だったので、練習をしっかりして、とりあえず上尾ハーフがあるのでそこで優勝することが、僕の最大の自分に対しての2区で区間賞を取るためにも最低限優勝することと、チームに対してもプラスになるというか、あいつでもこれだけしか練習していなくてもできるんだということをしっかり示せるように、全日本のあともしっかり練習して上尾でしっかり走って箱根に向けてチームで行けばいいのかなと思っていました。

――箱根や昨年の上尾ハーフなどここ最近は最後に競り負けるということが多かったと思います。ことしの上尾ハーフで競り勝てたということに意味はありますか

渡辺さんにもこの1年ずっと言われ続けてきたのが、きょねんの上尾や箱根もそうなんですけど、競り負けて勝負勘がないところがお前がエースになりきれないところだと言われていました。市田孝さん(大東大)は出ていましたが、村山さんなどの他大の主力が出ていない中で、いかにここでどう勝つかと思っていて、大学に入って初めて勝てた試合でもあったので、自信になったと思います。

――渡辺監督は上尾ハーフのあとに高田選手は勝ったあとにポカをするとおっしゃっていましたが(笑)

渡辺さんもすごくイメージで物を言う方なので、なんとも言えないですけど、確かに気が抜けるというか、そういう性格なのではないかなとは思っています。「大したことないんだからな」というようなことはすごく言われるんですよ。箱根だったりとか、この間の28分台とか上尾ハーフもそうなんですけど、監督がそこで満足しないでまだまだ上を見てやってくれという意味でいつも言われているのだと思います。実際のところ少し気が抜けるところもあると思うので、これからしっかり上を目指していけよという感じだと思います。

――上尾ハーフを受けて箱根に向けて必要なことは何だと思いますか

2区しか考えていないんですけど、2区に対して足りないことは権田坂だったり、戸塚の坂だったりというようなまだ上尾ハーフのようなフラットなコースでのレースは全然参考にならないくらいなんですね。上尾ハーフは上尾ハーフでしっかり動くように体が対応してきたということは参考にして、でもまだ少し崩れる部分が何個かあったので、しっかり練習を積みながら、集中練習では練習を9割10割やって質はただ後ろにちょっと体をしっかり作るという意味でやりたいです。この集中練習では、始めの3週間だけはしっかりきついとかいうような、足の痛みが出たら別なんですけど、足の痛みが出ないうちは、少ししんどくてもしっかりやることを習慣づけて、自分の中でも苦しいときに頑張れるという材料としっかりした土台を作っていかなければ、あのアップダウンはやはりこなせないと思います。1回走ってみたのでわかるんですけど、2年間しっかり練習を積んでいたからこそ走れた区間だったと思うので、そういった意味では今シーズンうまい具合に走れてないので、上尾ハーフは良かったんですけど、やはりまだまだ足りない部分がたくさんあるので、この3週間でしっかり練習を積んで、そこから疲労を落として、スピードを上げたらまたきょねん以上の結果が出てくれるのではないかと思います。

――全日本からのたった2週間しか経っていない上尾で20キロという距離を走りきれたのはなぜだったのでしょうか

全日本が終わって次の日から一週間、上尾ハーフに向けてというよりは箱根に向けてひたすら走ったんですね。全日本のときにスタミナのなさを肌で体感して、体的にも間に合わないし、気持ち的にも何かしないと、という思いがあったので、全日本が終わって一週間はただがむしゃらに量を追求しました。その後、一週間少しだけ休んで上尾ハーフというかたちだったので、すぐ結果として出たなという思いもあるんですけど、あんまり関係ないのかなという思いもあります(笑)。どちらかというと上尾ハーフで走れた理由としては、悔しさの方が自分自身を動かしてくれたのではないかなと思いますね。特に市田さんでしたし、全日本での1区の走りを見ているので、いまここで勝負することは自分にも自信がつくと思いましたし、いろんな思いが重なって62分という結果に出たのではないかと思います。

――2週間で距離への不安を克服できるということはあるのでしょうか

いや、それはないと思いますよ(笑)。あれは気持ちでカバーしたというか…。走り込んでいたら試合後のダメージというのは少ないと思うんですけど、本当にすごくダメージが大きかったので(笑)。上尾ハーフは正直レースもすごく条件が良くて、ペースも速くなくて、ずっとイーブンで後ろに付いて、というように好条件がそろったという感じだったので、気持ち的にもすごく強く持っていて耐えれば走れたという試合だったのもあり、もちろんプラスには捉えているんですけど、まだまだスタミナ不足は否めないと思いました。

3年目の挑戦

全日本はエース区間の2区を務めた高田。箱根でも「花の2区」での出走が濃厚。

――今シーズン、ケガで走れない時期を多く過ごしながらも、自己ベストを更新するレースも多くありました。その要因というのはどのようなところにあったのでしょうか

さじ加減というか、これくらいすればこれくらい走れるというようなある程度の目安がわかってきたからですかね。例えば今週しっかり追い込んでその後しっかり落とすというようなメリハリもしっかりつけれるようになって、1、2年目で練習ができていたというのもあるんですけど、それよりもここの試合に合わせるために何をすればいいかという自分の中で気分や状況というよりも、どう持っていけばいいのか、7割しか出ないなら7割出るようにもっていくというかたちでいまできる自分の追求をするというか。竹澤さんから話を聞いてもそういうメリハリという話は出ます。あの人からすごく学んだのは集中力ですね。絶対合わせるというような集中力がすごいなと思いました。

――競技者として試合に合わせるにはどうすればいいのかというような経験というのが身になってきたということでしょうか

そうですね。ただ走っているというだけではなくて、いかにしたらどういうことができるのかということがわかってきたと思います。ただ自己ベストと言ってもいままでの自分が弱すぎただけなので、もちろん最低限走れたということでプラスにはなりますけど、最低限の結果だとしか思っていません。

――1、2年目と3年目とではどうしてそのような違いが出てきたのでしょうか

余裕が出てきたんだと思います。1年目は何もかもが初めてで何もかもがキツかったということしか覚えていなくて。1年目にキツいながらもいままでで一番1年目が走っているので、キツい中でもやってきたことが土台になってこうして余裕も生まれながらこういうパターンだったらどうするかというのがわかってきたので、メリハリがつけれるようになりました。それに、ケガを繰り返す時点で自分自身をわかっていると言えるのかわからないですけど、自分自身をしっかり理解できるようになってきたと思っています。

――では、現在の足の調子、状態というのはいかがですか

少し不安はあるかなという感じなんですけど、寒さもあったりして少し痛みがあったりもするんですけど、確実に全日本終わってから上尾ハーフの前が一番走りのバランスが良くなかったんですけど、上尾ハーフから集中練習までの1周間、完全に休んで治療も受けてリセットできたので、集中練習始まってしっかり積んでるんですけど、まだ大丈夫です(笑)。

――最後に箱根に向けて2区しか考えていないということなので、2区への意気込みを聞かせてください

ことしはきょねん区間賞だったとか、いろいろな取材で言われたりするんですけど、ケガしたとかそういう自分はまったく関係なしに、挑戦していきたなと思います。

――ありがとうございました!

(取材・編集 川嶋悠里)

箱根への意気込みを書いていただきました

◆高田康暉(たかだ・こうき)

1993(平5)年6月13日生まれ。170センチ、54キロ。鹿児島実高出身。自己記録:5000メートル14分00秒99。1万メートル28分49秒59。ハーフマラソン1時間2分2秒。色紙を書きながら実は硬筆、毛筆ともに段持ちだと教えてくれた高田選手。迷わず書いたのは「挑戦」の2文字。2度目の箱根地も挑戦者として走ります!