【連載】『十人の戦士たち』 第9回 大迫傑

駅伝

 駅伝主将として駆け抜けた大迫傑(スポ4=長野・佐久長聖)。エンジ色のユニホームをまとって走る最後の戦いを終え、4年間について、そしてこれからについて思うことを伺った。

※この取材は1月28日に行われたものです。

「変なプライドを持たずに走れた」

駅伝主将として挑んだ1年を振り返る大迫

──12月はアメリカにいらっしゃいましたが、そちらではどのような練習を行っていましたか

向こうの練習に合わせてという感じで練習していました。

──具体的には

スピード練習をやったり距離走をやったり、全体的にバランス良くやっていました。

──1区を走るということはいつ頃伝えられましたか

帰ってきて、東京箱根間往復大学駅伝(箱根)の1週間くらい前ですね。そこで聞きました。

──1区に起用された理由などはお聞きになりましたか

スタートでそんなに遅れるわけにはいかないということだと思います。

──直接お聞きにはなっていないということでしょうか

そうですね。直接は聞いてないです。

──帰国後、田中鴻佑選手(法4=京都・洛南)や山本修平選手(スポ3=愛知・時習館)がケガをしているという状況がありましたが、駅伝主将としてそのような状況をどのように感じましたか

それに関しては渡辺さん(康幸駅伝監督、平8人卒=千葉・市船橋)からみんなの状態を聞いて、故障持ちなので本当はもう1度距離走が入るはずだったのですが、みんなの意見を聞いてそれを伝えて、ちょっと練習量を落とすというかたちを取りました。

──例年よりは直前の練習量がやや少なめになったということでしょうか

いや、でもそんなに変わらないです。一回ポイント練習を飛ばしたという感じですね。

──「自分が5区を走ってもいい」と発言したと箱根の中継の際にアナウンサーの方がおっしゃっていました。この発言はどういった気持ちからですか

特に考えていなくて、そんなに意味があって言ったことではないです。

──意味はないけれど、それくらいの気持ちで走るといったことでしょうか

そうですね。まぁ、面白半分…面白半分とか言っちゃいけないですけど、まぁ、そうですね…そういう可能性が勝つ方法としてベストであればという感じですね。

──足に違和感があったとお聞きしましたが、大迫選手自身の直前の調子はいかがでしたか

そのときにできる段階では十分に仕上げたつもりです。

──それでは、レースについてお伺いしていきたいと思います。序盤からハイペースで集団を引っ張っていましたが、それはどういった意図からですか

多分僕がいかないとスロー(ペース)になると思いました。そうなるといままでやってきた練習が無意味になってしまうなと思って、自分で引っ張るしかないなと思って走りました。

──「いままでやってきた練習が無意味になってしまう」というのは例えばどういったことがありますか

そこでしっかりとしたペースで走るために準備をしているので、遅いペースになってしまえばいままでやってきたことが無駄になるじゃないですけど…そうですね、無駄になるかなと思ったので。あと弱いチームを振り落とすことで確実に順位を狙うためにということですね。

──いったん先頭から下がったときがありましたが、その時はどういった状況でしたか

結構きつくて、もともと全部は(ペースを保って)いき切れると思わなかったので、それが10キロ過ぎで来て後ろに下がったという感じですね。

──レース前は何キロくらいまでならペースを維持して走れると考えていましたか

特に考えていませんでしたが、2年時くらいのペースでいこうと思っていたので、まぁそのあたりで…目安というのは特になかったですね。

──早大の総合成績は4位でした。そのことについてはどのように捉えられていますか

できる限りのことはしましたし全員が力を出し切った結果が4位だったので、次につながる結果にはなったと思います。ただ、(山本)修平、田中(鴻佑)、志方(文典、スポ4=兵庫・西脇工)あたりが故障なく、また順調に走れていれば3位、2位あたりを狙えたのかなとも思いました。

──チームとして不完全燃焼な感じはありますか

どうですかね…、走った選手に関してはもうみんな完全燃焼したと思いますけど…まぁ、不完全燃焼というのはちょっと違うかなと思います。

──駅伝主将に就任した際、「泥くさくやっていく」チーム方針とおっしゃっていましたが、大迫選手から見てこの1年間チームは泥くさくやってこられたと思いますか

そうですね、泥くさくやってこられたと思いますし、あと1番良かったところが焦りがなくなったというか、ワセダの変なプライドをことしのチームは持たずに冷静に走れたので、そのあたりが大きく成長できた点かなと思います。

──「変なプライドを持たずに」というのは、実力を見極めて目標設定ができるようになったということでしょうか

そうですね。いままでだとやはり「優勝しなきゃ、優勝しなきゃ」と言って無理なペースで(レースに)入ってしまったりすることが多かったのですが、ことしはそういうことがなかったかなと思います。

──今回、大迫選手以外の4年生では志方選手と田中鴻選手がエントリーされていましたが、当日のエントリー変更で走れなくなってしまいました。そのことについてはどのように思われましたか

どちらかは必ず走ると思っていたので、当日のエントリー変更が回ってきた時はやはり「あぁそうなんだ、走れないんだ…」とショックではありました。

──田中鴻選手はケガなさっていましたが、志方選手もケガなさっていたのでしょうか

走る前は僕もあまりよく分からないんですけど、1カ月くらい前は多分順調に走れていました。ちょっと調子を落としたという感じですね。故障とかではなくて。

──優勝した東洋大と早大を比べて、足りなかった部分はどのようなところにあったとお考えですか

もともとスタートラインというのが(東洋大の方が)だいぶ先にいっていたので、チーム力という意味での。まぁ、そのあたりかなと。アプローチの仕方としては劣っていないと思いますし、逆に1年間で差は縮められたんじゃないかなと思います。

競技に対する意識の変化

──大迫選手は入学時から世界を目指すということをおっしゃってきて、実際に世界選手権に出場を果たしました。有言実行なさいましたが、その原動力は

自分が頑張りたいものというのが明確に決まっていたので。原動力…勝ちたいという気持ちですかね。

──高校時代は全国高校駅伝の1区で区間賞を獲得するなどロードに強い印象がありましたが、トラック中心でやると決めた理由は何ですか

いままではトラックの延長線上で駅伝を走れましたし、距離も10キロだったので自分のやりたいことをやりながらトラックを走るということができました。でも、大学だと箱根があってまた違う距離になってくるので、自分のやりたいこととの両立はなかなか難しいかなと。駅伝を頑張ろうとするとトラックが疎かになるので、トラックを頑張ろうとして駅伝もその延長線で走れればというふうに考えが変わりました。

──高校時代からトラックに力を入れていきたいという考えはありましたか

そのときはそこまで線引きをしていなかったので、あまり考えてなかったですね。

──4年間で最も印象に残っているレースは何ですか

そうですね…やはり、世界陸上(世界選手権モスクワ大会)ですかね。あれがスタートだと思うので。思い出というか、まぁ、思い出になったレースですね。

──実際に世界選手権に出場なさってみて、どのような場所だと感じましたか

レベルの高い場所というのは当然ですし、やはりここで勝負していかないといけないんだと改めて思いましたね。

──世界選手権に出場してみて得られたものはありましたか

そういう意志というか、頑張っていくぞという気持ちが得られたものの中で一番大きいものだなと思います。

──箱根は4度走られましたが、どの大会が最も印象に残っていますか

1年生の時はもちろん印象に残っていますし、また3年生の時にああやって特殊な気象条件の中で走るというのもすごく思い出になりました。特にというのはないですけど、全部が思い出です。

──高校時代はケガしがちな印象がありましたが、大学に入学してからは大きなケガをせずに競技生活を送られてきました。その理由についてはどのようにお考えですか

高校時代のケガというのはアキレスけんを一回痛めてからも無理をして頑張ったせいで長引いた結果なので…まぁ、もともとそんなに故障しやすくはないと思うんですけど。ただ、アキレスけんとかそういった故障は無理すると後々長引くぞというのを高校時代に知れたので、それが良い意味で実践できたのが大学だったのかなと思います。

──大学に入学してからは無理し過ぎずに練習を積んできたということでしょうか

そうですね、やるときはやりますけど。ただ痛みが出たときはストップして2、3日様子を見るということで練習を継続してきました。

──早大に来て変わったことなどはありましたか

本当に自分で考えてやらないと結果を残せないチームなので、どんな練習をしたらもっと強くなれるのかということは常に考えていました。

──早大に来て良かったと思う点はありますか

やはり自分で考えられるチームというのもなかなか少ないと思うので、その点ではすごく良かったなと思います。

──渡辺監督はどのような監督でしたか

自主性を重んじてくれる監督なのでやりやすかったです。

──具体的にどういった点で感謝しているということはありますか

本当に自分の意見を一番尊重してくれたので、そのあたりは感謝しています。

──早大には一般入試で入学した選手も多くいらっしゃいますが、そういった選手と練習することで感じることはありましたか

僕自身は同じ選手として見ているので、一般入試だからとかスポーツ推薦だからとかっていう線引きはあまりしていません。ただ、4年生の時は非常に良いチームメートに恵まれたなと思いました。

──志方選手や田中鴻選手など同期の選手の名前を口にすることが多かったように思いますが、大迫選手にとって同期の選手はどういった存在でしたか

チームメートで、もちろん一緒に頑張ろう、チーム全体を良くしていこうという感じで一緒に頑張るチームメートでもありましたし、また、普段一緒に出かけたりとかする友達でもありましたね。

──同期には他のブロックですがディーン元気選手(スポ4=兵庫・市尼崎)という大迫選手と同じように世界で戦う選手がいらっしゃいますが、ディーン選手の存在は刺激になりましたか

そうですね。特に3年生の時のロンドン五輪で僕は出られずにいたんですけど、ディーンが出られて、しかも良い結果を残して。そのことは、五輪ほどの大きな大会ではないですが、らいねん(世界選手権に)頑張って出られるようにしようというふうに非常に刺激になりました。

──ディーン選手とは世界で戦うことについての会話をなさってきましたか

そういう突っ込んだ話はあまりしないですけど、まぁお互いが、お互いがというかディーンのやってることとか、姿勢っていうのを見て僕だけじゃなくみんなが刺激をもらっているんじゃないかなと思います。

──ディーン選手の競技に対する姿勢を見て、大迫選手も頑張ろうと思われたということでしょうか

そうですね。

──ロンドン五輪の時のお話はお聞きになられましたか

あまり聞いてないです。

──後輩に伝えたいことはありますか

本当にワセダらしくあることは良いと思うんですけど、そのワセダらしさが悪い方向にいかないようにやっていってほしいかなと思います。

「いかに勝負できるか」

箱根から世界へ羽ばたいていく

――4月からアメリカでトレーニングされるそうですが、大会などで日本に帰国される予定はありますか

日本選手権と、全日本実業団駅伝の時に帰国する予定です。

――アメリカではどのようなトレーニングを予定していますか

春先はトラックに向けてトレーニングする予定です。秋はどうなるのかまだよく分かっておらず、現地に合わせるので試合なども未定です。現地の練習メニューに自分が沿っていくかたちになると思います。大会なども日本選手権しか決まっていないので、また相談して決めていきたいと思っています。

――6年後に東京五輪が開催されますが、トラックとマラソンのどちらで出場を目指されますか

そこではマラソンで勝つことを目標にしてやっています。いまから少しずつ準備が始められたら良いなと思っています。

――何歳ごろまでトラックに専念されるのですか

明確な基準などはないので、両立してできたらやりたいと思っています。具体的にはこれから決めていきます。

――今後の目標を教えてください

リオ五輪や東京五輪で、いかに自分が勝負できるかということをこれから考えてやっていきます。

――ありがとうございました!

(取材・編集 目黒広菜、八木瑛莉佳)

◆大迫傑(おおさこ・すぐる)

1991(平3)年5月23日生まれのA型。170センチ、53キロ。長野・佐久長聖高出身。スポーツ科学部4年。自己記録:5000メートル13分20秒80。1万メートル27分38秒31。ハーフマラソン1時間1分47秒。2011年箱根駅伝1区1時間02分22秒(区間賞)、2012年箱根駅伝1区1時間02分03秒(区間賞)、2013年箱根駅伝3区1時間04分44秒(区間2位)、2014年箱根駅伝1区1時間2分14秒(区間5位)。