【連載】秋季早慶戦直前特集『雪辱』第10回 大竹耕太郎

野球

 今季、3年春以来の勝ち星を挙げ復活を印象付けた大竹耕太郎(スポ4=熊本・済々黌)。順風満帆だった1、2年時から一転、3年時からは幾度となくカベにぶつかってきたが、だからこそ得られたものもある。大竹の苦悩の四年間と、最後の早慶戦へ懸ける思いに迫った。

※この取材は10月20日に行われたものです。

「自分の中でやることが決まっている」

紆余曲折のあった四年間を振り返る大竹

――最近は気温が低い日が続いていますが、体調管理の面で気を付けていることはありますか

 食事をバランスよく食べるというのと、部屋を加湿するようにしています。

――雨の日が続く中での調整はいかがですか

 ランニングの量は距離をとれないので、できるだけ量を落とさないように屋内でバイクをこいだり、心肺系をしています。負荷を強めに。

――ここまで平日の練習では登板日までにどのように備えてきましたか

 ピッチングは水曜か木曜で、それは決まってなくてその前の週の過ごし方で変わるんですけど、水曜か木曜に投げて、投げた日にウエイト(トレーニング)をして、体を追い込むようなかたちで。

――少しずつ登板日までに疲れを抜いていくかたちでしょうか

 そうですね。ランニングは少しずつ距離を短くしていって、金曜は30メートルくらいのダッシュをパパっとやって終わる感じですね。火曜なら長い距離を走って速さというよりは息が上がるようなトレーニングをしていますね。

――ランニングと言えば、試合前は入念に走り込んでいる姿を見かけます

 自分の中でやることが決まっていて、ランニングの中でただ走るだけじゃなくて股関節の運動だったり、ランジだったり、自分の中で「これはやる」と決めているものがあるんで、それはしっかりこなして試合に入りたいという気持ちですね。四年間でいろいろ変化はありますけど、オープン戦でいいピッチングができたときにやっていたことだったり、日ごろの練習の中で教えてもらったことを取り入れてみたり。最低限が決まっていて、それプラスアルファで加えるようなかたちで。それで不安が取り除かれるような意味もあるんで、そういう精神的なまじないですね。

――走っている中でその日の体調を感じるというお話もありました

 そうですね。結構日によって体の状態は違って、「きょうはここが張ってるな、だから走り方悪いな」「じゃあこっちもっと効かせないといけないな」と体のバランスが分かるので、大事にしていますね。

――他大の選手たちの間でも話題になっているようですが

 自分あんまり人前でやるのは好きじゃないんで、見られたくないタイプというか。あんまりチーム内では言われないというか、人前ではやらないです。

――あまり練習などは見られたくないタイプですか

 みんなでやるより一人でやった方が自分の中でも精が出るので。

――日頃のケアはどう行っていますか

 自分の体の使い方の中で、まだ良くない部分というのがあり、張りやすい部分、具体的には左の中殿筋を、取っていかないとどんどんぴピッチングは崩れていくので、そういうところは気を付けて、チームのトレーナーにお願いしてやってもらっています。

――ここまで日々欠かさずに行ってきた日課などはありますか

 日記つけてます。基本的に野球のことですけど、発見があった時とかを書き留めて、後からぱっと見返して調子が良かった週にどういうことしてたっけと分かるんで、やっています。

――それはいつごろから

 2年春くらいですかね。調子が良かったので、忘れないようにしたいとそこから続けています。

――グラウンド外、試合前から日常的に意識的に行ってきたことが多いように感じますが、これは高校時代からですか

 いや高校の時はあんまり考えてないです(笑)。全体の練習が長かったので、プラスアルファとか自分でという考えはなかったですね。大学に入ってから自由な時間が増えるのをどう使うかなので。

――4年時は授業がゼミだけということで、時間的な余裕も生まれたと思いますがそこの時間は何に充ててきましたか

 ジムでトレーニングに通うようにして、そういうところで体の悪い部分や悪い使い方を直していこうと取り組んでいます。それ以外だとケアという部分で、学生トレーナーはチーム全員を見ることができないので、時間があるときは治療院に行ってできるだけケガを防ぎたいという思いでやってきました。

――登板前の対戦相手の研究にもより時間が費やせるようになったのではないですか

 そうですね。3年や4年の春はそこがなあなあだったなと思って、夏から自分で考えるようにしないといけないなと思って。今シーズンはバッターを見て、リスクというか、ここに投げたらホームラン打たれるなとか考えるようになりました。その結果、ホームランはまだ一本も打たれていなくて、チームとしての被本塁打数もリーグ最少で、みんなそういうところを考えてやれていると思います。

――「なあなあだった」とは

 とりあえず球種散らして、それこそゲームでテキトーにやってるみたいな感じで。キャッチャーも僕自身も一球一球に根拠がなかったです。道端さん(俊輔、平28スポ卒=現明治安田生命)とお話しして一球一球意図があってそういうふうに配球していたんだなというのが分かったので、考えるようになりました。

「親を喜ばせてあげたかった」

――明大2回戦で勝ち投手になった後、祝福なども多かったのではないですか

 そうですね。LINEやメッセージなどいただいて、球場でも温かい声を掛けていただいたので、それは純粋にうれしかったです。

――特にうれしかったものは

 誰ですかね。でも、親は自分が喜ばせたかったというか。ちょうど父の誕生日だったので、そういう意味でもうれしかったというより喜ばせたかったから頑張ったというのはあります。ずっと試合に来ていたんですけど、勝てなかったり投げられなかったりが続いていたので、久々に胸を張って試合後に食事をできましたね。去年は打たれた後で申し訳なさしかなかったので、そういう意味ではうれしかったですね。

――ご両親は毎週のように来られていたのですか

 だいだい1シーズン2回、早慶戦は絶対来るんですけど、それと開幕戦ですかね。だいたい我慢できなくて連続週のどっちかで3回目来るんですけど(笑)、よく来ましたね。しょっちゅう東京に来ています。それが楽しみで仕事してるらしいので、その分頑張らなきゃなとは思いますね。

――チームメートからの祝福はいかがでしたか

 みんな声は掛けてくれましたね。「ナイスピッチング」と。そんなに深い話はしてないですけど。その時はバッティングも良かったんで、久しぶりにほめてもらいましたね。

――その中でも特に印象に残っているのは

 八木(健太郎、スポ4=東京・早実)ですかね。一番身近なので。そのあとに部屋に来てくれて、うれしかったです。

――試合後の囲み取材では涙を流されていましたが、涙もろいタイプでしょうか

 ですね。感動するCMとかでもウルっとタイプです(笑)。

――これまで勝って流す涙と負けて流す涙とありました

 野球のことになると特に、というのはあります。

――勝因として打者の反応を見ることができたことを挙げていました

 そうですね。これでファール取りたいとか、これはボールでいいとか考えてやっていたので。そう考えるとすごく楽ですし、いい球もいくので、考えていました。

――翌日の3回戦でも2番手で登板すると、中盤から終盤にかけて粘投しました

 2日続けて投げるとだいたい2日目に打たれるので、あまり自信はなかったんですけど、チームが拮抗した試合をしていて抑えたいという気持ちで必死に投げましたね。

――安打は毎回のように打たれていましたが、要所で踏ん張れた要因はどこになりますか

 心の余裕ですね。ヒットも多かったですけど、だいたい単打で止まってたんで、それは打たれても一つずつしか進まないので、そういう意味では余裕はありましたね。追い込んでから真ん中に入らないようにというのだけ意識していました。

――この2試合の投球である程度の手応えを感じたのではないでしょうか

 そうですね。まだ改善点はありましたけど、ある程度やっていけるかとは思いましたね。

――加えて、バットでも活躍しましたね。打撃はお好きですか

 好きですね。あんまり練習はやらないですけど、試合は好きですね。試合は打てそうじゃなくても打てるので。とりあえずストライクは振ろうという感じで、あまり期待されいない分やりやすいというか。

――バスターでの安打もありましたが、2年春の立大戦で見せたバスターの構えからの右越え本塁打を思い出しました

 あんまりバスター好きじゃないんですけど、あの時はピッチャーもバッターも完全にバントと決めつけてきたので、初球あえて見逃して様子を見て、「決めつけてるな」と思ったので、打ちにいったんですけど、案の定その置きにきたボールを打てました。

――2度目の先発となった立大2回戦では、残念ながら2回途中での降板となりました

 追い込んでから甘く入ったなと。特に右打者のインコースが、熊谷(敬宥、立大4年)の2ベースや藤野(隼大、立大2年)はもったいないピッチングになりましたね。初回の感じはすごく良かったんですけど、そこから甘い球が続いて。球の質はあまり問題ではなかったんですけど、熊谷は長打になっているので、中に入ったのはよくなかったなと。

――この立大戦もかなり対策をして臨まれたのでしょうか

 はい。かなりしましたね。だいぶ見て研究はしていました。でも研究したところに投げられなかったというか。ここに投げたいというところにいかずにちょっと甘く入ったなという感じですね。

――立大は3年春、3年秋、4年春と続けて負け投手になっていて、苦手意識などありましたか

 そうですね。相手にも得意なイメージを持たれているんだろうなとは感じましたし、明治戦と相手と相対しているときと雰囲気が違うというか。余裕を持って入ってきているように感じたので、相性じゃないですけどそういうものは感じました。逆に小島(和哉、スポ3=埼玉・浦和学院)とかすごく立教に強いというイメージがありますね。

――先発として早々とマウンドを降りてしまった悔しさはありましたか

 そうですね。2回2失点ですか。でも、チームの方針として1、2点でも代えるので、それは仕方ないとは思いますけど。

――その後は東大戦、法大戦とマウンドから遠ざかっていますが、これについては率直にどう感じていますか

 投げる投げないを決めるのは自分ではなくて首脳陣なので、ちょっと何とも言えないですけど、自分は試合に出られたときのために淡々と準備するだけだと思っています。

――もどかしさもあるのではないでしょうか

 4年なのに試合に出られないというか。チャンスがなかなか巡ってこない、その中でチームも勝てないので、悔しいですよね。特に法政の2回戦は準備はしていたので、いついくのかなと待機している中で後輩がみんないってみんな平等に点を取られて。そういう中で投げられないのはすごく悔やしかったです。

――投手起用も打順の巡りや代打の有無、展開などによって変わってくるのでしょうか

 「こうなったら行くよ」と言われていても「いや、やっぱりなし」とか結構あるので、難しいですね。そこは対応するしかないです。

技術以上に成長した『心』

最後のマウンドでベストピッチを披露する

――入学前の話になりますが、ワセダとの出会いはいつでしたか

 斎藤さん(佑樹、平23教卒=現北海道日本ハムファイターズ)がテレビに出るようになって、ワセダってすごいんだなと。そういうのをきっかけに早慶戦とか見るようになりましたね。早稲田大学という大学は知っていましたけど、熊本にいるとイメージもつかないので、実際に早慶戦を見に行ったこともないですし。斎藤さんというスターがいたというのは大きかったかなと思います。

――済々黌高のユニホームは早大をモチーフとしていますが、当時から何となく早大で野球をするイメージはありましたか

 そうですね。大学に行くなら早大か慶大かなと。中3の卒業文集に「ワセダに入る」と書いていたので、イメージしてたんでしょうね。あんまり覚えてないですけど(笑)。

――その早大か慶大か、で迷うことはありましたか

 めちゃめちゃ悩みましたね。授業中も授業を聞かずに考えてましたね。3年の夏前くらいからですかね。ワセダの練習にも参加させてもらったりしたんですけど。

――済々黌高はどちらかというと慶大とのつながりの方が強い気がしますが

 そうですね。高校の監督も慶大出身で、1個上のキャッチャーの先輩も慶大に行っていて、自分の中で慶大の方が有力だったんですけど、結局はワセダにしました。

――早大進学の決め手となったのはどういった部分になりますか

 練習を見て厳しいイメージというか、オフの長い慶大に比べてワセダの方が自分に厳しくやれるんじゃないかなと思って選びました

――卒業後の進路のことも考えての選択でしょうか

 高校からプロという選択もあった中で大学に来て、4年後はプロに行きたいなと思いましたね。出身OBとか見ると早の方が圧倒的に多いので。

――晴れて早大野球部の仲間入りを果たすと、1年時から即戦力として活躍しました。これはご自身でイメージされていましたか

 いや。入学してキャッチボールを見ているだけで「これは投げられないな」と感じたのが最初でした。有原さん(航平、平27スポ卒=現北海道日本ハムファイターズ)、内田さん(聖人、平28教卒=現JX―ENEOS)、吉永さん(健太朗、平28スポ卒=現JR東日本)のキャッチボールを見て、「これレベル違うな」と(笑)。気が引けたというか、びっくりしたのを覚えています。こっから相当成長しないと投げられないんだろうなと最初は思いました。

――1年秋には開幕投手に抜てきされ、4勝をマークしました

 有原さんがケガをされて巡ってきたチャンスだったので。でも夏のオープン戦で多少の手応えはあった中で迎えたリーグ戦だったので、1年生らしく投げられたとうか。その時は深い考えとかないんで、単純に思い切って投げてるだけでした。

――とはいえ、1年目からこれだけ投げられたことは大学野球をやっていく上での自信になったのではないですか

 そうですね。自分くらいの球速でもしっかり投げ切れればプロに行くようなバッターも打ち取れるんだなと自信にはなりました。特に1年の時は2個上や3個上にすごい選手が多かったので。

――そこから2年時の活躍は誰しもがご存知ですが、下級生時の2年間か一転、3年時は挫折を味わいました

 やっぱりあの投げ方を続けていたら持たないなという投げ方で投げていたので、必然というか、偶然で起こったことではないので、ここからもう一度1、2年のときの投げ方に戻すというよりは新しい自分をつくっていかなければならないと。精神的にどうというよりは体の使い方に問題があるというのは自覚をしているんですけど、なかなか難しいところなので、これから上の舞台でどんどん変えてかないといけないと思っています。

――来るべき時が来たという受け取り方なのでしょうか

 実際1年あんだけ投げて、2年はひざを故障したり、一年間持ちませんでした。疲れもあって、「これを何年も続けるのは厳しいな」と思いました。3年になっていく中で自分の投げ方が分からなくなってきたというか、体が使えないというか、腕が振れない感覚になって、そのままずるずるいってたんで、自分の身をもって感じましたね。

――変化を求められたのですね

 元々高校時代から背筋に頼るような、腰をそって思い切り回すみたいな投げ方で、そういう投げ方は本来使うべき使い方ではないので、もう癖がついちゃってるので、厳しいですね。体の使い方から変えないと投げ方に反映されないので、変えようという努力はしているんですけど、ピッチングの中では意識せず日頃の練習で意識して継続してこまめにやるようにしています。投げるときはあまり考えないようにしています。

――カベにぶつかって腐りそうになる時はありましたか

 もう何したらいいか分からないというか。これどうしたら良くなるのかなと本当に悩んだ時はありました。3年の一年はずっとそんな感じでした。

――さまざまなことを試してダメでの繰り返しですか

 そうですね。いろいろ・・・やってみましたけどうまくいきませんでしたね。でもその経験が今後に生きればいいとはすごく思います。結果的には意味のなかったことかもしれないけど、あの時こういう経験をしたから今があるんだなと思えればいですし、そう思えるように今もずっとやっている感じですね。

――2年までに9勝を挙げましたが、ここまで四年間で11勝。数字としても伸び悩みました

 悔しかったですし、普通に思うような投球ができれば抑えられたと思うので、それができなかったことが自分の中ですごくもどかしさがあったりしたんですけど、「あの時あれで終わってしまって残念だったね」で終わりたくないです。

――そういった中でチームメートや家族の支えが大きかったと思いますが

 やはり試合もなかなかうまくいかない中でチームに居場所がないのは感じていて、そういう中で除外せずに迎え入れてくれたチームメートに感謝してますし、親もいつも「どういうかたちになっても応援してる」と言ってくれたので、すごく励みになりました。

――「逃げそうになる時こそ挑み続けることの大切さ」というところが四年間で一番大きいでしょうか

 そうですね。高校時代は悩みとかほとんどなくて。だいたいなるようになってきたので、そう甘くはないんだなとこの四年間で感じたのと、そういうときに諦めないでやることが大事だなと。特に後半の二年で身をもって体験できたというのは、みんながみんな身をもって体験できることではないので、ありがたいですし、それが生きるようにこれから頑張りたいという気持ちです。

――それでも、上級生になるにつれてチームへの思いや自覚は増したと思いますが

 実際に1、2年の時の4年生を見て、4年生ってすごいなというか。4年生の活躍は必須だなと思ったので、それを逆の立場になったときは自分が、という考えでした。

――それは自身がリーグ優勝を先導したメンバーの一人であるからこそ余計に、ですか

 優勝した時にプレーしていたメンバーって少ないと思うので、そういう経験をしている分、求められる部分というか周りからの期待は大きかったのかなと思います。

――四年間で最も成長したのは『心』ということでしたが、具体的には

 やはり物事に対して真摯(しんし)に取り組むようになったというか。高校の時とか今思えばなめてたんで(笑)、うまくいかない時期がある中でもっと真剣にというか。それがうまくいってるいってないはありますけど、それは人に対しても下から低姿勢で接するようになりました。

――「逃げたくなる時こそ諦めず挑み続けることの大切さ」と『心』は通ずるということで間違いないですか

 それはもちろん同じですね。経験がなかった分そういう経験をして。それももちろん『心』という面に含まれています。そこが野球をやめた後も一番大事だと思いますし、人生失敗することの方が多いと思うので、そういうときにどれだけ頑張れるかです。

――技術的な成長よりも精神的な成長の方が大きいと

 技術的な面で言えば球種のバリエーションがだいぶ増えたりしましたけど、それ以上に大事なものを学べました。

――時には批判や厳しい声もあったと思いますが、どう受け止めてきましたか

 結構言われるんですよね。例えばプロ志望届を出したら「絶対に無理だろ」と。その人の自分のことを思って言ってくれていると思うんですけど、「絶対にプロでは無理」と言われることもあったので。リーグ戦でも同じですけど、「あいつはもうダメだ」と。それをそのまま「俺もう無理だんだ。ダメなんだ」と受け止めたら終わりなんで、自分はどちらかというと反骨心にしてそういう人たちを見返してやりたい。今回もそうやってプロ志望届を出して、プロではそういう人をギャフンと言わせたいというか。そういう気持ちは人一倍ありますね。それが原動力にもなっているかなと。

――順風満帆ではない四年間でしたが、後悔はありますか

 後悔がないと言えばうそになりますよね。あの時もっとこういう練習をしていれば。もっとこういう意識をしていればというのはありますけど、それを考えても先には進まないので、今の自分を見て現状でできることを考えようと思ってます。

――では、早大に入ったことへの後悔はないのですね

 そうですね。後悔はないです。野球以外の面でもいろいろな方と接することができて、自分の中でも幅も広がったなとすごく感じるので。ワセダというすごく大きな組織の中でやれたことはありがたかったなと思います。

――「迷惑を掛けた分、恩返ししたい」と口にされてきましたが、今もその思いは変わりありませんね

 最後くらい意地を見せたいというのはあります。登板機会をいただけるかどうか分かんないですけど、その時のために今入念に準備してベストパフォーマンスできるように準備してます。

――これが7度目の早慶戦になりますが、あらためて早慶戦は大竹選手にとってどんなものですか

 やっぱり大学野球の最高峰の舞台ですし、そこで野球できることに改めて感謝したいですね。

――チームとしては置かれた状況としてかなり厳しいものがありますが、その点についてはいかがですか

 法大戦で連敗してしまって気分としても下がるとこかもしれないですけど、それもさっきと同じでつらい時こそ、というのはあるんで、早慶戦は2連勝で有終の美を飾りたいなと思います。

――今季も打線が強力な慶大ですが、印象はいかがですか

  オール早慶では全員打たれて大量失点したので、打線の怖さを感じますね。特に一発があるのでそこは気を付けたいと思います。

――打ち取るうえで大事になってくるのはこれまで同様に事前の研究でしょうか

  研究も大事ですね。あとは制球力です。立教戦で中に入ったという話がありましたけど、そういうのが増えてくると点につながるので、それを減らしたいです。

――それでは、早慶戦への意気込みをお願いします

 今まで四年間支えてくださった自分の周りの方々であったり早稲田のファンの皆さんであったりための恩返しという意味で、最後は四年間やってきたことをピッチングで体現するという気持ちで思い切り腕を振りたいなと思います。

――ありがとうございました!

(取材・編集 郡司幸耀)

支えてくださった全ての方へ、『恩返し』を

◆大竹耕太郎(おおたけ・こうたろう)

1995(平7)年6月29日生まれ。184センチ、78キロ。熊本・済々黌高出身。スポーツ科学部4年。投手。左投左打。今季使用するグラブは春秋連覇を成し遂げた2年秋と同じものを使用。色が秋らしく、自分の投げ方に合った型をしていて使いやすということでした。