【連載】『令和4年度卒業記念特集』第14回 近澤澪菜/女子サッカー

ア式蹴球女子

チームを勝たせるキーパーで居続けること

 全日本大学女子サッカー選手権(インカレ)での無失点優勝。3年生ながら不動の守護神として快挙を成し遂げた約1年後、近澤澪菜副将(スポ=JFAアカデミー福島)は、チームの本拠地から遠く離れた兵庫の地で肩を震わせた。インカレベスト8敗退。近澤にとってのラストイヤー、前回王者であるア女は早々に大会を去った――。

 

「チームを勝たせるキーパー」であるために、多くを背負い、求められ続ける4年間だった。同期メンバーの多くがサッカー選手としてのキャリアを歩もうとしている中、近澤は一度ここでグローブを外す。決してマイナスな感情からの決断ではない。この選択には彼女の22年間の人生が詰まっている。

 

パスの出しどころを探す近澤

 今年、女子サッカー界から一人の偉大なゴールキーパーが姿を消す。近澤澪菜、22歳。学生離れした体格に、ピッチの逆端からでもよく聞こえるコーチング。鍛え抜かれた右足から放たれるゴールキックはハーフェーラインを優に超えて最前線に届き、誰もが決められた、と思うシュートも涼しい顔ではじき出す。試合を変えてしまうゴールキーパーとは、近澤のためにある言葉ではないかと見まがうほどだ。「女子サッカー界から」と大きく括ったが、決して言い過ぎとは思わない。ピッチ上の近澤にはそれだけの威圧感、存在感がある。

 「サッカー選手になりたい」。子供の頃の、近澤の夢だ。保育園で仲の良かった友達の影響で一緒にやるようになったというサッカーは、あっという間に幼き日の近澤を虜にした。中学2年生の頃には、実力的には未熟ながらもそのポテンシャルを買われ、JFAアカデミー福島に入団。全国からスカウトされてきた実力者たちと共に、切磋琢磨する日々が始まった。もちろんはじめから上手くいったわけではない。しかし、高いレベルへのフィットに苦しみながらも近澤は「なんのために来たんだ」と奮起。生来の負けず嫌いの性格が上手く作用し、世代別の全日本選抜にも選出されるほどに飛躍を遂げる。夢はただの夢でなく、現実に。ぼんやりとしたイメージだったものが、明確な形をともない始めていた。

 強豪クラブへの特別指定選手としての参加や、いくつかの大学サッカー部への練習参加を経て、最終的に近澤は早大進学を決めた。練習参加した他の大学サッカー部には雰囲気やレベル感が合わないものもあったが、ア女だけは「びびっときた」。ここなら楽しんで成長できる。直感でそう思った近澤は、ア女で過ごすサッカー生活に胸を躍らせた。

 

試合に出場していなくても持ち前の声と明るさで存在感を示す

 「1年生の頃ははっきり言って、チームは何を目指しているんだろうというか。自分はどうプレーしていけばいいんだろうみたいな」。近澤自身が選んだ新たな環境は、想像していたものとは少し異なっていた。膝のけがで離脱を余儀なくされると、Uー19女子サッカー日本代表は選外に。ア女からも同期の二人が選出されていただけに、悔しさは大きかった。長い時間をけがのリハビリに費やす日々。少し後のことになるが、近澤は部が公式サイトで定期的に行っている部員ブログリレー企画『ア女日記』で、当時の心境をこう書き綴っている。「…追いつくためには、みんなが必死に練習している時に、自分も同じように、もしくはそれ以上にやらないとって思いました。みんな頑張っているんだから、自分もやらなきゃと思いました。きついけど、泣いてまでリハビリする理由があったんです」。

 2年生になった近澤は本来のポテンシャルを発揮し、出場機会を増やし始めた。そしてシーズンの締めくくり、インカレ初戦。メンバーリストのGKの欄には、“近澤澪菜”の名があった。「いつでもいける」。近澤は自分を奮い立たせてピッチに立った。しかし90分後、彼女らを待っていたのは悲劇だった。0-1でのインカレ初戦敗退。偉大な先人たちが残してきた功績(2019年当時インカレ優勝6回、前年度3連覇達成)はア女のメンバーにとってはプレッシャーに、対戦相手にとっては格好のモチベーションとなっていたのだ。いつでもいける「つもりだった」。そう近澤は振り返る。「西が丘で戦う先輩方を見てきていたので、(ア女は)西が丘に戻るのが当たり前だと思っていました。精神的にかなりきつかったですね」。

 リベンジを期した2021年シーズン、3年生となった近澤は本格的に正ゴールキーパーとして試合に出場し始める。二人の頼れる先輩キーパーが引退し、逆に後輩のキーパーが二人加入したことで、近澤は大きな責任感を持って戦うようになっていた。そして迎えたインカレ。ア女は、史上初・無失点優勝の快挙を果たす。近澤は当時のインタビューにこう答えている。「全員でつかみ取った優勝だと思います。すごく苦しい時もありましたが、報われてよかったと思います」。決勝のスタメンには近澤ら当時の3年生が多く名を連ね、これはア女の2022シーズンの快進撃を予感させるものだった。

 

インカレ優勝の瞬間。白銀の西が丘で喜びを爆発させる

 迎えたラストイヤー、近澤は副将に立候補した。主将は先頭に立って引っ張り、副将は後ろからみんなを助け主将を支える。そんなイメージが近澤にはあった。「総合力の試されるシーズンでした」。けが人の続出や、コンディション不良により相次ぐ試合日程延期、それによって生まれる過密日程。夏場は特に、限界に近い状態で戦い続けた。「相当しんどかった。でも『こういう時こそだよね』『このままで良いわけないよね』と、それこそ和夏(船木主将・スポ=日テレ・メニーナ)中心に言ってくれたので」。あの悔しさを、あの喜びを知っているから。足を止めるわけにはいかなかった。ア女が掲げた2つの目標「全日本女子サッカー選手権大会(皇后杯)ベスト8」と「インカレ優勝」。2つの大会はリーグ戦を終えた、長いシーズンの最後にやってくる。

 皇后杯はア女にとって会心の勝利の連続だった。なでしこリーグのクラブを1回戦、2回戦と連続でねじ伏せ、3回戦では同リーグで上位に位置するオルカ鴨川FCと対戦。互角以上に渡り合った試合はPK戦にまでもつれ込んだ。PK戦直前、近澤は緊張した面持ちの選手たちに声をかける。「絶対止めるからみんな思い切り蹴ってきて!」。事実相手の6本目に、後に周りの度肝を抜く衝撃の駆け引きでもって「精神戦」を制し見事ストップ。ア女のキッカーが6本目を決め、ベスト16進出を決めた。しかし惜しくもア女の快進撃はベスト16で終わりを告げる。プロ・WEリーグのクラブである大宮アルディージャVENTUSを相手に0-1。互角以上の戦いを繰り広げたが、試合開始直後に食らった1点に泣いた。「全然勝てたと思ってるんで。ただ、でもWEってそういうことだよな、とも思いました。もしア女生活をやり直すとしたらあそこからやり直したい、というくらい悔しかったです」。それでも下を向いたままではいられなかった。インカレまでのインターバルはわずか1週間。勝てなかった悔しさを、それでも戦えていたという自信をばねにして、チームは残すタイトルに向け前進していた。

 

6本目、近澤はあえての「フライング」で相手キッカーを精神的に揺さぶった

 インカレ初戦、少し固さはあったものの危なげなく突破。日大との2回戦に臨む。幸先よく先制し、ア女の勝利は間違いないと誰もが思った。しかし後半開始直後。まだ1分もたっていないうちに同点を許す。いつもの近澤なら何でもなくキャッチしている、そんなシュートだった。何度もチームを救って来た大きな両手を、ボールはするりと抜けだしネットを揺らした。1-1のままPK戦に突入することが決まり、ベンチに帰ってきた近澤が口にしたのは自分のミスを詫びる言葉だった。自責の念から、皇后杯3回戦のPK戦前にみんなを鼓舞したような言葉は出てこなかった。それでも。「本当にごめん。でも絶対止めるからみんな決めてきてください」。円陣を組み、祈るようにキッカーたちに声をかけた。自分のミスは自分で取り返すと誓いながらーー。

 

PK戦で仲間が蹴る瞬間の近澤

 「今ですか、全然何もしてないですよ。友達と遊んだり、バイトしたり…」。今年1月にア女を引退した近澤は、今でもア女のグラウンドで2人の後輩キーパー、石田心菜(スポ3=大阪学芸)、丸山翔子(スポ3=スフィーダ世田谷FCユース)の練習をサポートしているそうだ。2年間、ライバルとして競い合って来た後輩たちには近澤も「自分が試合に出ている間、2人とも悔しい気持ちは少なからずあったと思います。でもいつも自分がプレーしやすいように支えてくれたので、感謝の気持ちでいっぱいです」。そう言葉を惜しまない。

 近澤はあの日、宣言通り2本のPKを止めた。止める度仲間たちの歓声が起こったが、近澤だけは一切表情を変えなかった。勝つまでは。勝つまでは笑えない。そんな覚悟が見える表情だった。結果、PK戦は2-3で敗北。「自分だけが責任を感じなくていいっていうのは分かってます。でもあのミスがなければチームは西が丘に行けていたと思うし、何より自分たち4年生にとっては集大成として挑んだインカレだったのに、自分のミス1つで(勝利を)奪ってしまったな、と。本当に申し訳なかったと思います」。近澤はそう振り返る。

 

近澤は2本のPKを止めた

 近澤のア女での最後の試合は、あまりに辛く悲しい結果に終わった。しかし近澤にとってはそんな試合もかけがえのない思い出の1つだ。4年間で1番の思い出は、と聞くと「ありすぎますね(笑)。もうやめてやるって思ったこともありましたし、それを朋香(菊池マネジャー・政経4=東京・早実)が本気で怒って止めてくれたことも感謝してるし。皇后杯でPK止めてみんなが駆け寄ってきてくれたのもすごい嬉しかったし、インカレで、最後自分のミスであっけなく終わってしまったのもすごく印象に残ってます。1番は決められないですね」。

 そんな近澤は登録選手としてのサッカー人生にここで一度、区切りをつける。この選択はずっと近澤の頭にあり、チームメイトや監督にも話していたことだ。考えるきっかけになったのは高校生の時の特別指定や世代別代表としての経験だった。「選手としてだけで生きていくほど自分は強くない、と感じたんです。それと他にやりたいことが見つかったので。みんないずれやめるし、他の人よりちょっとタイミングが早いだけだと思ってます」と近澤は語る。

 長い競技人生の中で近澤は、人を支えることに魅力を感じるようになっていた。「やっぱり自分自身も支えられることが多かったので、…今度は自分がそっち側をやりたいと思って」。卒業後は、スポーツマネジメントの会社に就職が決まっている。サッカー選手として活躍する同期たちと、今度は仕事で、別の立場で関わることもあるかもしれない。

 

 サッカーにおいてゴールキーパーというポジションはあまりに特殊だ。「手を使ってはいけない」という原則に唯一反しており、同じくフィールド上で唯一、ピッチ全体を見渡すことができる。誰よりもユニフォームを汚し、擦り傷を負いながら、一つミスを犯せば試合の結果を決してしまう。そんなポジションを選んだ近澤にとっての理想のキーパー像は「チームを勝たせるキーパーでい続けること」。近澤自身はそんなキーパーだっただろうか。ア女で近澤と共に過ごした同胞たちは皆、こう問いかければ即座に首を縦に振るに違いない。

(記事 大幡拓登、写真 前田篤宏、大幡拓登、渡辺詩乃)