ア式蹴球部卒業記念特集 第5回 島崎元『自分のために、仲間のために』

ア式蹴球男子

『自分のために、仲間のために』

 川崎フロンターレのユースでプレーし、国体優勝という経歴を誇り、充実した競技生活を送っていた島崎。しかし、早稲田大学ア式蹴球部(ア式)に入ってからはケガを繰り返し、プレーヤーとして活躍の場をつくり出せないまま虚しく日々は過ぎる。そんな中、4年時にはア式の戦術担当であるアナライズチームリーダー(AT)を任されることとなった。ア式の学生主体という環境で、戦術が決められていないという状況に苦しめられ、主体性とは何か、多様性とは何か、悩み続けた。そんな島崎のサッカー人生の軌跡を辿る。

 

 チームメートに戦術を説明する島崎

 兄がサッカーをしていたことがきっかけで3歳の頃に始め、5歳で地元のクラブに入団。他にも水泳などのスポーツもしていたが、仲間と触れ合う中でサッカーの魅力に惹かれ、熱心にプレーしていた。小学生では、町のクラブに所属し、小学校6年生の時にトレセンに選ばれたことで、川崎フロンターレのセレクションに合格。その後、中学・高校では川崎フロンターレでプレーし、3歳年上の兄の背中を追いかけながら、技術の精度を上げ、試合に出場する。しかし、そんな島崎でも大学選びに苦労していた。兄がアメリカの大学でサッカーを続ける中、さまざまな理由でアメリカの大学に進むことを断念し、進学先に早稲田大学を選んだ。

 入学直後は最初の合宿でAチームの練習に参加するなど、順調な日々を送っていた。部則は厳しかったものの、プレー中のプレッシャーが減り、楽しくサッカーをすることができたという。これまで川崎フロンターレではパスサッカーをしてきたが、ア式は戦術が決まっておらず、一対一などの一つ一つのプレーに拘る必要があったため、武器であるスピードや足元の技術を成長させることができた。しかし、シーズン途中に全治3カ月のケガに見舞われる。その後もケガを繰り返し、ほとんどプレーできず苦しいシーズンとなってしまった。また、「今までは自分の道に1歩先に兄がいて、周りも自分も意識せざるを得なかった。しかし大学は兄と違うレールだったから、自分で歩いていくという感じで、大学に入ってから自分自身でブランディングをしなければながらなかった。そこに苦しんだ。」と島崎は振り返る。

 

喜びの輪に加わる島崎

  2年生は新型コロナウイルスの影響で自粛期間の3カ月はチームで練習ができず、自宅でトレーニングをするしかなかった。メンバーと練習ができるようになった後も、元通りにはならず、マスクをしてプレーする選手がいたり、コミュニケーションが取りにくくなっていたりと、大きく環境が変わっていく。しかし、その中でも関東リーグ2位という成績を残し、チームに活気が戻ってきていた。

 3年生になり、島崎はAチームからBチームに降格。その結果、チームよりも個人の結果にフォーカスしてしまっていた。しかし、Ⅰリーグ担当の上赤坂佳孝コーチと西川玄記(令4スポ卒)に習い、サッカーの本質を見つめ直せたという。しかし、1人のプレーヤーとして納得できるプレーをすることができなかった。

 そして、最終学年となり、チームの役職を決める話し合いが行われた。島崎はこの時にはプロへの道は難しいと判断し、就職にベクトルが向く。そのため、主務を希望していたが、周りからの推薦によりATとなった。ATとは、チームの戦術、サッカーの方針を決め、チームに落とし込む役割を担っている。ア式ではチームとして一貫した戦術を決めておらず、学生主体で決めていくスタイルが取られている。島崎はそんなATをするとは思いもしなかったため、実感が湧かなかった。それでも川崎フロンターレでの戦術や経験を生かし、チームに貢献しながら就活をしたいと考え、熱意に溢れていた。川崎フロンターレ時代に馴染みのあったパスサッカーをベースとし、加えてJリーグやプレミアリーグの試合を見て戦術を学び、ア式に生かそうと島崎は日々努力を重ねた。当時は「最終学年ではいい結果を残すと思っていたし、メンバーを見ても可能だと思っていたからそういう意気込みやっていた」と語る。

 先述した通り、ア式には一貫した戦術がないため、これからも使えるベースとなる戦術をつくりたいと思い、シーズン開始まで主務の平田陸人(商=埼玉・早大本庄)や、小林俊太(創理=東京工大附科学技術高)、監督、コーチらと話し合いをし、関東リーグに向けて準備を進めた。

 

 ドリブルをする島崎

 しかし、関東リーグでは序盤から負けが続き、チームの雰囲気は悪く、現実を突きつけられる。結果が出ない中、前期の東京国際大との試合の後、4バックから3バックにシステムを変更することになった。島崎は4バックを維持すべきと考え必死に説得したが、納得してもらえなかった。「負けている時の変更は選手にとって不安定に見えてしまう上、完成し切っていない状態での新しい戦術はストレスになっていたと思う」と、選手との間に溝が生まれる。また、プレーヤーとして関東リーグに立てなかったが、それよりもチームとして結果が出ない焦りから自身のことは二の次にしていた。「4年生の頃はチーム優先で個人のことが後回しになってしまい、より自分に目を向けて実力を発揮するというところにもフォーカスすべきだった」と島崎は後悔している。

  だが、島崎はこの経験によって大きく成長することができた。ATはみんなの前で話す機会が多くある。資料を作って戦術を落とし込み、コーチ陣とのコミュニケーションを日々積み重ねていくにつれて、人前で話すことへの苦手意識がなくなり、社会に出ても生かせる力を身につけることができた。また、外池大亮前監督(平9社卒=東京・早実)には社会人としての思考の深さや変化し続けるという部分があり、その外池監督とサッカーのことはもちろん、それ以外のことでも話すことができ、社会に出る上で大切なことを学べたと島崎は語る。

 

 4年最後の早慶クラシコ。ベンチ入りするも出場はかなわず。それでもATとしての役割を果たし、3年ぶりの勝利に貢献した

 ATを務める中で、得たものはこれだけではなく、ある重要なことに気づけたという。「多様性」という言葉の捉え方についてだ。ア式は学生主体で運営していくが、「多様性」を幅広く捉えられている影響で個の成長、結果をおのおの意識が向いてしまい、自然と個の主張が強くなり、互いの力でチームをまとめることができない。そのため、この経験から組織を運営するには「ベースの上にいろいろな考えや価値観を載せることが大切であり、チームとしての完成度を求めるならやはりある程度周りを制限、尊重しなければいけない。選手同士の本音のぶつかり合いが必要だ。」ということに気づくことができたのだ。また、島崎にとってア式はレベルの高い場所で、その反面サッカーにおいても勉強においても数え切れないほど挫折した。しかし、挫折することで自身の力のなさや強みに気づけ、結果的には成長でき、プラスとなった。

  大学院進学後はプレーヤーとしてサッカーを続けることは考えていないが、W杯での川崎フロンターレユースの先輩、三笘薫(ブライトン)や田中碧(デュッセルドルフ)の活躍から刺激を受け、「これからの人生を歩む中でサッカーに携わりたい」という島崎。これからもサッカーへの情熱を持ち続け、まっすぐ走り続ける。

(記事 大濵愛弓、写真 ア式蹴球部提供)

◆島崎元(しまざき・はじめ)

2001(平13)年1月17日生まれ。川崎フロンターレU18出身。スポーツ科学部。川崎フロンターレユースから早稲田大学に入学し、さまざまな苦悩や葛藤を繰り返してきた島崎選手。そこから学んだこと、得たことをお話してくださいました。早稲田大学卒業後は大学院に進学し、将来は日本のサッカー界がより盛り上げるためにサッカーに携わりたいということで、これからも島崎選手の活躍に期待が膨らむばかりです!