新たな『加藤拓己』で
2021年12月12日。早稲田大学ア式蹴球部の2021シーズン最終戦となった、全日本大学選手権(インカレ)2回戦。その男はスタンドから、仲間たちの戦いぶりを見守っていた。
男の名は、加藤拓己(スポ=山梨学院)。高校時代から、印象的なスキンヘッド姿と野性味あふれるプレーで、全国に名をとどろかせていた。しかし、早大に入学後、彼の名前は一度表舞台から姿を消した。そして、大学最後の大会でも、その姿はピッチ上になかった。加藤がぶつかり、突き進み、またぶつかり、突き破り。新たな『加藤拓己の姿』を手にしてゆく、早大ア式蹴球部での4年間を追った。
キャプテンマークを巻き、周囲に指示を送る加藤
「ア式が大嫌いだった」。1年生の頃を振り返り、加藤はこう口にした。高校時代の足首のけがが響き、大学に入学してもサッカーをすることができない日々。状態が芳しくなく、手術も余儀なくされた。競技に打ち込めないことに加え、ア式蹴球部特有の自分自身、そして組織と向き合うことが求められる環境において、加藤は意欲を失っていく。「周りからは加藤要らないでしょと言われて。俺からしてもお前らとやりたくねぇよ、という感覚で」。こうした思いに至った理由を、こう分析する。「正直、自分に自信があって。誰に何を言われようが関係なかった。俺の方が上だから」。
当時の加藤の耳には、誰の言葉も響くことはない。学年リーダーの杉田将宏(スポ=現アルビレックス新潟シンガポール)を筆頭に、上級生や同期の面々がどんな言葉をかけようとも、加藤の思いが変わることはなかった。「俺は他人の人生に責任を持てない。(皆が)なんで俺の人生にそこまで口を出すのか、口を出せるのか。疑問だった」。そんな加藤にもようやく変化が訪れたのは、ひとつ学年が上がった後だ。後輩がチームに加わり始めたことや、重要な一戦の前日練習に寝坊をしたことなど、いくつかの要因が重なったことで、気持ちに変化が生まれた。「(皆が)本気で俺のことを変えようとしてくれているんだなと気づいて。2年生になってからです。全部遅かったんです」。
印象的なエピソードがある。練習前のルーティンについて、武田太一(令2スポ卒=現FC大阪)から指導を受けたときのことだ。「怒られた理由が(当時は)分からなくて。でも、太一くんがケガをして気づいたんです。試合に出る人間は、早くグラウンドに行ってトレーニングをするという、行動を見せていかないといけない。それが自分のプラスになろうがマイナスになろうが、そういう姿勢が(チームにとって)大事と」。加藤が、少しずつ『ア式色』に染まっていく瞬間だった。
2019年の早慶戦では後半ロスタイムに決勝ゴールを奪い、MVPを獲得した
チームに対する思いは、学年が上がるにつれて、加藤の中で強くなっていった。「100人以上いる組織で11人しか(試合に)出られない。そいつらが下にいる人よりもやらないと意味がない。上が下を引っ張り上げないといけない。それが11人の責任」。しかし、こうした考え方に起因して、加藤が4年生となった時、プレーに迷いが生じてゆく。「最高学年として、自分の良さを消してまででも、チームのためにやらなきゃいけないことがあった。すごく守備をやるようになったとか。でもそれは自分の本意ではなくて。自分じゃないなと感じながらも、そういうのにとらわれていた」。事実、4年生で迎えた2021シーズンの加藤は、リーグ戦11試合に出場して3得点。21試合の出場で10得点を奪った前年に比べ、ゴール前の局面に注力できていないことは明らかだった。
だからこそ、4年生の7月に前十字靭帯断裂の大けがを負った際、加藤がはじめに抱いた思いは少し特殊なものだ。「けがと言われた時、やっとこの重圧から解放されるのかという思いが1番強くて。どっちかというと安心しちゃったというか」。ピッチから離れることに、どこか安堵(あんど)した自分がいたと話す。ただ、加藤の胸中には、すぐに違った思いが浮かび上がることとなる。「(診断後に)外池(大亮監督、平9社卒=東京・早実)さんと話した時、めちゃくちゃ号泣したんです。めちゃくちゃ泣きながら、まだみんなとサッカーしたいからすぐに手術をします、と言った記憶がはっきりあって。(診断を受けた静岡から東京へ戻る)新幹線の中では、もう背負わなくていいんだなとか思っていたのに。やっぱりまだみんなとやりたいという思いが残っているんだなぁって」。相反する感情に揺れる中で、わずかな可能性を信じ早期復帰を目指す姿があった。
得点が欲しい時に得点を奪う、まさしく『エース』だった
加藤がピッチを離れて以降、早大はなかなか勝利を積み上げることができずにいた。20シーズンに準優勝を飾ったアミノバイタルカップでは2回戦敗退。その後のリーグ戦でも勝利が遠く、シーズン終盤には残留争いに巻き込まれた。一方の加藤は、清水エスパルスのサポートの元、静岡でリハビリに励んでいた。早大の試合を中継で観戦し、「(敗戦後に)ソファーに向かって携帯をぶん投げている自分が不思議でした。俺めっちゃ早稲田のこと思ってるじゃん、って。画面にちょっとヒビが入っちゃって。部費で修理代出してよって感じです(笑)」。SNSを通じて同期や後輩にメッセージを送るなど、加藤なりの関わり方を模索しながらチームを支えた。
早大はその後も調子が上がらず、シーズン最後の大会となるインカレでも2回戦で姿を消した。それでも、加藤はチームメートに最大限の賞賛を送る。「みんながシュートブロックに行って、みんなでやったサッカー。みんながブレずに同じところへ向かっていたと思うので、恥じることや、下を向く必要はない。結果とは、試合のスコアだけでなく内容も含めたもので、特に大学サッカーではそこが大事だから」。大学入学当初のような加藤は、もういない。チームでの戦いぶりに目を向ける、新たな加藤がそこにいた。
最後のインカレに敗戦後、選手たちにスタンドから声をかける加藤
「チームのために戦えるようになった人間が一番強いですよ。個人のプレーで勝っても意味がない。チームが負けたら早稲田弱くね、と言われます。俺はそれが嫌です」。現在の加藤が求めるものは、チームでの勝利だ。そして、こうした加藤が生まれた大きな要因は、ただひとつ。「同期が俺を変えてくれたから。本気で俺を変えようとしてくれたから。同期がいなかったら、プロサッカー選手になるどころか、入部もできていなかったです。同期には感謝しかないです」。幾度となくぶつかりあい、苦楽を共にした同期に変えられ、支えられ、そして現在の加藤拓己が育てられた。
同期のBチーム主将、DF松浦一貴(スポ=エストレラ姫路U18)をピッチへ送り出す加藤
20日、清水エスパルスとアスルクラロ沼津の練習試合で、加藤は約8ヶ月ぶりにピッチに立った。完全復活の時は、もう間も無くだ。「加藤拓己という人間の人生を描いていかなければならないので。自分自身の人生の責任を背負いながらやっていきたい」。早大で形作られた、新たな『加藤拓己』で。チームの勝利、『王国復活』への道を拓いてくれるはずだ。
(記事・写真 橋口遼太郎、写真 石井尚紀、内海日和、前田篤宏)
◆加藤拓己(かとう・たくみ)
1999(平11)年7月16日生まれ。180センチ82キロ。山梨学院高出身。スポーツ科学部。関東大学リーグで、1部通算46試合出場20得点。
選手にとどまらず記者に対しても、冗談と持ち前の明るさで笑いを届けてくださった加藤選手。リハビリのため加藤選手が寮を留守にしていた数か月は、寮が大変静かになっていたそう。「老人ホームくらい静かだったけど、俺が帰ってきた瞬間ブラジルの刑務所くらいうるさくなった」と語ります。ただ、寮には問題児がもう1人。「俺より平瀬(大=スポ4・サガン鳥栖U18)の方がやばいです。部屋のドアを開けたら目の前をボールが通って、何かと思ったら平瀬が野球をしていたんです。蛍光灯やガラスが割れていないのは奇跡です」。寮での楽しい日々の一幕を教えてくださいました!
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