早慶クラシコに捧げた4年間
2021年10月24日、西川玄記(スポ=石川・金沢桜丘高校)は早慶クラシコの舞台を見つめていた。4年間の集大成として、自分が作り上げた早慶戦を終えての感想は「結果は自分の実力だが、負けた」。試合の勝敗ではない、自分の望む最高のクラシコを作り上げることができなかったことに対する敗北だ。早慶戦に全てを捧げた男が4年間のア式生活と学生生活で得たものとは何だったのか。
早大ア式蹴球部でマネージャーを務めている西川。しかし、高校以前はプレイヤーとして活躍していた。小学校の時に親の影響で始めたサッカー。中学校時代は部活動に入らず、地元のクラブチームに所属。順調なサッカー生活を送っていた。中学の頃から自分がプロになるというイメージが湧かなかったため、文武両道を掲げている石川県では有数の進学校である県立金沢桜丘高校に入学。しかし、学業では勉強しても勉強しても勝てない人がいた。一方、サッカーでは全国高校生選手権大会出場を目指したが県大会で敗れてしまう。ポジションとしてはサッカーも勉強もトップと争える土俵には上がっている。そのため比較される機会が多い。手が届きそうだが、決して届くことはない。そんな残酷な状況に立たされ、「自分はトップではない未熟者」だと感じていた。この挫折は西川のその後の人生に大きな影響を与えることとなった。
早大に入学する以前に西川は地元の国立大学に進学し、部活の延長線上でサッカーを続けた。しかし、周りとの熱量の違い、思い描いてた環境との差異を感じてしまう。「周りと切磋琢磨し合い、サッカーに本気になれる学校に行きたい。やるなら勉強もサッカーもトップレベルでやりたい。」こうした思いを胸に浪人生になることを決心し、早大へ進学を決めた。
4年早慶戦に出場する西川
まず、西川は早大に入り、ア式蹴球部に入部する決断をする。この決断は外池大亮監督(平9社卒業)との出会いにある。ア式の見学に行き、自分のこれまでの考え方やこれからの自分の選手としての考え、今後ア式が目指す方向・指針について対話した。「ア式なら胸を張って活動ができる、1番自分に合っている」と感じ、入部。選んだ役職はマネージャーだ。”日本のサッカーを強くしたい”という大志を小さい頃から抱いてきた西川。マネジメントという仕事が自分の夢の実現に近かった。早慶戦に興味を抱いたのも日本サッカーを強くするためには大学サッカーの強化が不可欠。色々辿っていくと早慶戦が1つの風穴になるという意識があったと西川は語る。
今や”西川玄記=早慶クラシコ”と呼ばれるほど。全てをこの一戦に捧げ、成果を導いてきた。しかし、1、2年生のア式での活動は順風満帆とは言えないものだった。「サッカーを見ることやサッカーを通して何かを作ることに自分のパワーやエネルギーを使い切った方が本気になれるのではないか」。裏方に回ったが、練習する姿に触れ、競技者への憧れを抱くこともあった。練習の前後や合間にボールを蹴っても自分が思うサッカーからは程遠い。おまけにマネジャーとしての仕事も試行錯誤が続き、自信が持てない。そんな考えが西川の心を覆う。もがく日々の中でチームの勝敗すら自分に関係ないもののように感じた。西川は再び挫折の壁に対面することなった。一方、1年生の時にア式の仕事を整理をしていた際に早慶クラシコと運命的な出会いをする。そこから、取り憑かれたように早慶クラシコに夢中になっていた。
悩める日々が少し変化し始めたのは2年生になった頃。責任を持つ仕事を任される機会が増え、自分の裁量で決断することも増えた、仲間から信頼と信用をされるようにもなり、早慶クラシコでも大きな役割を任されるようになった。もがいていた日々の成果が結ばれていくようになったからだ。しかし、まだ葛藤する気持ちが完全に消化された訳ではなかった。「したいこととするべきことの間で揺れ動きすごい葛藤があった」。
葛藤と挫折の日々が終わったのはア式に入部して3年目。「チーム付きになって試合に同行したい、クラシコをア式の選手たちのために作り上げたい」とア式への愛は次第に膨らんでいった。「周りが作ってる自分と自身のイメージの自分が重なる感覚」とこの時期を振り返る。自分の頑張りが認められない、成果が数字に出ないため周りには伝わらないという悩みが解消され始めたのだ。西川の活動を先輩が見て知り、手伝い始め、それに触発された同輩や後輩も理解し始めた。これまで1人で孤独に奮闘してきた西川だったが、チームの温かさに触れたことでチームのためにという頑張る動機を見つけ出した。寝れない夜は数えきれない。半年前から寝れないこともざら。何度も辛いと感じ、頑張ることを辞めそうになった。そんな時、先輩、同期、後輩からの連絡、グランドでの会話が助けとなった。「この人たちが活躍するための舞台ってどういう舞台なのかな」と早慶戦への新たなアプローチの仕方を発見し、部外の人の共感を得た。映画や小説などさまざまなジャンルのものに触れ、サッカーとは関係ない人生を歩む友人との交流を深め、他大学のサッカー部の人との繋がりを築いた。新しいことを吸収することにも務めるという意識が生まれたのだ。仲間との絆を感じ、視野を広げ、西川は大きな成長を遂げ、やるべきこと、すべきこと、したいことを明確にして、スケジュールを組めるようになり、早慶クラシコを作るリーダーとしての役割も果たす。コロナというイレギュラーはクラシコの運営に大きな打撃を与えた。それでも成功するという確固たる自信を西川はすでに身につけていた。
迎えた最終学年。Iリーグの運営や100周年に向けたプロジェクトのメンバーにも入り、ユニサカという外部組織のリーダーを務めるなど活動の幅を広げながらも、ひたすら早慶クラシコの成功を目指して、がむしゃらに走り続けた。後輩、これからのア式に残せることは何かと周りを考える余裕も生まれるように。しかし、早慶戦を終え、西川から出てきた言葉は「勝者ではない。責任者として詰めが甘すぎた」という反省と後悔の言葉だった。もっとやれたのではないかという気持ちとこれは自分の実力だという複雑な心境で、結果には満足できない。「周りからの頑張ったよという言葉が何よりも辛かった」。早慶クラシコのコンテンツとしての可能性など、終わってみると見えてくる部分が次々と出てくる。一方、やりきった、燃焼したという気持ちも確かに感じてはいた。
「自分の人生を考えた時に経験を活かしたグッドルーザーとして、違うステップで自分の立場で向き合うことで、よりその中での結果にこだわる人になるのかな。負けたからこそ負けを自分の中で正当化している人生の歩み方をしているかもしれませんね。ある意味勝負に出ることを決めたのも自分じゃないですか」
クラシコでの”敗北”を次の経験に生かそうと既に西川は前を向いている。
マネジャーとしてチームに貢献し続けた西川
「全力でやり切ること、綺麗事、盲目的に夢中になること、結果にこだわること、仲間」。全てが4年間で学んだことだ。卒業後はサッカーに全く関係のない職種へ進む。そして、自分自身を形作っていると語っていた早慶クラシコに別れを告げる。残したレガシーは後輩たちが受け継ぎ、西川が描いていた理想の早慶クラシコを必ずや実現させることだろう。100周年に向けたプロジェクトに参加しているため、まだまだア式での活動は終わらない。社会人になり、再び選手として活動したいとの野望も口にしている。人生をサッカーに捧げてきた男はこれからもサッカーと共に生き続ける。
(記事 水島梨花 写真 ア式蹴球部提供)