【連載】『令和3年度卒業記念特集』第11回 倉持快/男子サッカー

ア式蹴球男子

早稲田で築いた自分らしさ

 早稲田が誇るスピードスター、倉持快(人=神奈川・桐光学園)。天性の圧倒的なスピードを武器に、第一線を駆け抜けてきた。中学、高校では全国の舞台を経験し、選手としての実績も十分。しかし、早稲田入学後はケガや不調に苦しみ、思うようにいかない時期も多かった。ア式蹴球部(ア式)での4年間を終え、サッカー人生に一つの区切りがついた今、倉持は何を思うのか。倉持のサッカー人生に迫る。

 サッカーと出会ったのは小学1年生の時、仲の良い友人に勧められたことがきっかけだった。しかし、当時のサッカーは「お遊び」。そんな倉持の転換点となったのは、小学3年生での転校である。新たなサッカーチームに入団し、「勝つためにサッカーをやる」ようになった。それ以来、倉持はサッカーにおいて常に高いレベルを追い求めるようになっていく。

 中学では東京のクラブチームに所属し、3年生時には全国大会にも出場。「夢という言葉がぴったり」という舞台にさえ手が届き、着実にステップを登っていく。高校は「サッカーも強くて、勉強もできるところ、というのが自分の軸にあった」と、名門・桐光学園へ進学。強豪校に在籍しながらも1年生の時からAチームで練習を重ね、全国の舞台も経験した。周りにはプロへと進む選手もおり、「そういう人たちとサッカーができたことで自分の成長につながった」と振り返る。

 ドリブルでゴール前へ侵入する倉持

 文武両道を志す倉持が、大学の進学先に選んだのは早稲田大学。入学前に参加したア式の練習では「ボール回しの練習でもすごく疲れるし、対人も自信があったが一切通用しなかった」と衝撃を受けた。それでも「ここでやれなきゃプロになれない」。迷うことなく入部を決意した。しかし、滑り出しは順調ではなかった。入学直前のケガの治癒に、想定以上の時間がかかり、ピッチにすら立てない日々が続いたのだ。ケガをしている間に見た景色は、様々な同期の活躍する姿。もどかしい気持ちを抑え、ピッチ外での業務を必死にこなした。そんな姿を見て声をかけてくれた先輩たちの存在が、倉持にとっての支えとなっていた。ようやくプレーができるようになったのは9月。チームは関東大学リーグ(リーグ戦)優勝を果たしたが、倉持にとっては「サッカーをやる組織に飛び込んだのにサッカーができなかった。何をするために入ったのか分からなくなる時期だった」と悔しさを感じる1年となった。

 ケガから復帰して迎えた早稲田での2年目。シーズン序盤、チームが不調で苦しんでいた一方で、倉持は一つ下のカテゴリーで好調をキープしていた。チームの状況と自身のコンディションがうまく重なり、倉持にリーグ戦の出場機会が訪れる。「1年の時に感じたレベル感だと、こんなに早く試合に出られると思っていなかった」と予想外のリーグ戦デビューだったが、これ以降徐々に出番を増やしていくこととなった。チームとしては残留争いに巻き込まれる苦しいシーズンとなったが、「自分が頑張ればチームの成果に貢献できる」とサッカー面での大きな成長を感じていた倉持。ピッチ内でチームに関われることが自身の充実感につながった。

 入学時に「大学3年でプロから声がかからなかったら就活一本」と決めていた倉持。勝負の3年目であったが、思うように出場機会が訪れない。「ダメになると落ちていってしまう、メンタルがプレーにもろに影響する選手だった」。気持ちの折り合いがつかず、サッカーに打ち込むことができなくなっていた。しかし、シーズン中盤、倉持に大きな転機が訪れる。再び調子が落ちてきたとき、今までと違い「抗う」ことができた。「ここで落ちていったらダメだ」と前に進み続けた。倉持は「うまくいかないときにどう行動すればいいか、自分のコントロール方法を知れたことは大きな成長だった」と大学3年目を振り返る。サッカー面だけでなく、精神面でも成長を遂げた1年となったが、プロから声がかかることはなかった。「今できることをやり切って、それでも声がかからなかったら仕方ない」と割り切ってはいたが、ショッキングな出来事だったのは確かだった。

 そして、大学最後のシーズンが始まった。「サッカーがつまらない」。プロを目指さないサッカーはモチベーションが上がらなかった。「どうしてサッカーをやっているんだろう」。そんなことまで考えた。苦しい時期を過ごす中で支えになったのは、ともにア式での日々を過ごした仲間の姿だった。そうした仲間の存在が倉持にとっての原動力となる。全日本大学選手権(インカレ)の出場権がリーグ最終節まで決まらないチーム状況。これまでともに戦ってきた仲間のためにも、このままでは終われない。倉持は「同期の苦しむ姿を見て、この代で何かを残したい」そんな思いを胸に最終節に臨んだ。チームは試合終盤の勝ち越しゴールで、インカレ出場権を獲得。倉持もピッチ内でその喜びを分かち合った。

 崖っぷちでつかみ取ったインカレの舞台だったが、結果はまさかの初戦敗退。自身は一時勝ち越しとなるゴールを決めたが、「4年間ここでやってきて、それが終わったんだ。もう同期とかとサッカーができないんだ」と、大きな喪失感に直面した。だが、決してつらい経験ばかりのシーズンだったわけではない。11月、リーグ最終節の前に行われた「4年早慶戦」。高校時代から同じチームでプレーしてきた田中雄大主将(スポ4=神奈川・桐光学園)からのパスを受け、ゴールを決めた。このゴールは「サッカー人生で1番印象に残るゴール」となり、この試合は「ア式での4年間で1番楽しい経験」となった。

 ゴールを決め、喜びの表情を見せる倉持

 ア式で過ごした4年間を「自分の周りで起きる物事、誰かの発言を自分なりに解釈する力や、アンテナを張ることが一番成長できた」と振り返る。倉持にとってア式は、「感情とか考え方が揺さぶられる組織。その分自分が何を大事にしているか、自分のコントロール方法についてよく知れる組織」。そんな場所だった。倉持の4年時の部員ブログのタイトルは「全力の喜怒哀楽」。法政戦(○1−0)でインカレの出場を決め、喜んだ経験。明治戦(●0−3)でモチベーションの低下につながるインアウトを経験し、怒った経験。今まで目指してきたプロになれず、哀しんだ経験。4年早慶戦で、はしゃぎまくって楽しんだ経験。ア式での4年間でさまざまな感情を経て、自分を知り、倉持は大きく成長した。

 「後悔はないです。やり切りました」。そのように振り返る自身のサッカー人生のそばには、憧れの父の存在がある。中学でクラブチームに所属した時、「父親が勝負にこだわる人。活躍している姿や、勝っている姿を見せたい」という思いが常にあった。高校に進学する時、家から離れた学校だったが父はすぐに応援してくれた。プロを目指すことにきっぱりと区切りをつけることができたのは、「かっこいいプロ」ではなく、そうした「かっこいい父」に憧れていたから。倉持にとってサッカーは「ひとつのパーソナリティ」であり、「自分が幸せになるうえでのひとつの手段」。あくまでも目標は「かっこいい父の姿」なのだ。

 倉持の次なる舞台は社会人。そこでもサッカーを続け、仕事とサッカーの両立を目指していくことになる。「ア式にいたからこそ考えられたこと、気づけたこと、そしてア式で築いた自分らしさを大事にしてやっていきたい」。

 憧れの背中を追い続け、これからの人生も駆け抜ける。

(記事 栗田優大 写真 橋口遼太郎、山崎航平)