【連載】『令和元年度卒業記念特集』第48回 牧野潤/男子サッカー

ア式蹴球男子

思考の先にある成長

 「人としての幅を広げることができた」牧野潤(スポ=JFAアカデミー福島)は大学4年間をそう振り返る。一対一での守備を最大の強みに、チームにとって必要不可欠な存在として貢献し続けてきた牧野だが、そうなるまでの道のりは決して順風満帆なわけではなかった。

 物心ついた頃には2人の兄を追いかけ、遊びながら一緒にサッカーをするようになった牧野。小学校に上がると少年団に入りプレーをしていたのだが、中学入学を前に地元を離れて単身、JFAアカデミー福島へ行くという大きな決断を下した。初めての寮生活やJFAが提供するプログラム、その一つ一つが刺激的で、親元を離れる寂しさを感じることなく日々を過ごしていた。しかし牧野は高校2年である大きな経験をする。初めての全国大会である日本クラブユースサッカー選手権(U18)で3位という結果を残したことだ。後にチームメイトとなる蓮川雄大(スポ=FC東京U18)とも対戦をし、日本のトップレベルを肌で実感した。その後大学でもサッカーを続けることにした牧野はアカデミーの先輩がいたというのもあり早稲田の練習に参加したのだが、そこでも高校と大学のスピードの差や選手一人一人の練習に対する姿勢などアカデミーとは別のクオリティで、人として尊敬できる人が多いと感じ、その中でやりたいという気持ちが芽生えたのだという。しかし牧野は、早稲田の練習から帰ってきた直後のリーグ戦で前十字靭帯を切る大けがに見舞われてしまう。これにより他の大学の練習に参加することもできなくなったため、早稲田に行く決意は固まったものの、このけがは牧野を苦しめることとなった。

持ち前の右足でクロスを上げる牧野

 いざア式蹴球部(ア式)に入部すると様々な壁にぶつかった。中学高校とアカデミーで6年間やってきた中で新しい環境に身を置くことの難しさ、求められていることの違いに戸惑いを感じ、そこに適応していくというのがなかなかできなかったと牧野は言う。けがを抱えていた牧野はなかなかコンディションも上がらず、思うように体が動かない状況でのサッカーは高いモチベーションを保つのには少し苦しかった。だが牧野はマイナスに捉えることはなかった。どう取り組んでいくべきなのか、どうしたら評価を得られるようになるのか__。自分の中で考えていくうちに、ア式で求められるものを少しずつ理解していき、自然と自分の価値観も変わっていった。それに合わせてモチベーションも上がっていき、1年が終わる頃には体も動くようになり、またサッカーを楽しいと思えるようにまでなったのだ。しかし迎えた2年もチームは一部昇格を決めたものの、自身は公式戦の出場のチャンスをつかむことができなかった。同期の大桃海斗(スポ=新潟・帝京長岡)や金田拓海(社=ヴィッセル神戸U18)、武田太一(スポ=ガンバ大阪ユース)らの活躍を見て、自分も開幕から試合に絡んでいきたいと強く思い、トレーナーとも話しながらトレーニングを重ねて自分自身を変えていった。そして3年の春、関東大学サッカーリーグ戦(リーグ戦)の開幕戦で見事スタメンを勝ち取ったのだ。相馬勇紀(平31スポ卒=現名古屋グランパス)と組むことが多かった牧野は、相馬を活かすためのサポートとなるプレーを意識しつつ一対一での強さを見せながら、その後もコンスタントに試合に出場し、中心メンバーとしてチームをリーグ優勝へと導いた。中でも優勝決定の前節、第19節筑波大戦は自身のサッカー人生で一番強い気持ちで挑んだと言えるほど白熱した試合で印象的だったという。結果こそスコアレスドローだったものの、両校ともに多くのプロ内定者を擁したレベルの高い試合だったこともあり絶対に負けたくないと思ったと同時にプレーをしていて楽しいと心の底から感じた。


 

 だがリーグ覇者として臨んだ最終学年、チームは苦しい時間を過ごすこととなる。リーグ優勝の翌年は二部に降格するというジンクスもあった中で、あまり意識しないようにプレーはしていたのだが、リーグ戦6試合勝ちなしとなかなか結果が出ない。リーグ優勝の立役者とも言える相馬や岡田優希(平31スポ卒=現町田ゼルビア)、小島亨介(平31スポ卒=現アルビレックス新潟)のような試合を決められる選手の不在の状況で、どう戦っていくか、チームをどう変えていくべきか__。最高学年としての責任を感じていたからこそ、同期や外池大亮監督(平9社卒=東京・早実)とたくさん話し合い、チームのことを考える時間はこれまでの3年に比べて格段に増えた。自身の役職であるグラウンドマネージャーも非常に責任感のあるものだった。映像を見て相手の特徴を分析し、自分たちの戦術を考えるこの仕事はチームの勝敗を左右し得る重要な役割を担う。4年になって牧野は今まで以上に多くのものを背負って戦った。そして苦しい期間を乗り越え、ア式はリーグ最終節の専修大戦で一部残留を決めた。長年言われ続けてきたジンクスを見事打ち破ったのだ。

 中高一貫のコミュニティから早稲田へ来て過ごしたこの4年間で、様々な人と関わり、色んな価値観や考え方に触れて視野が広がった。その中で、どう自分に落とし込んでいくか、どう次に繋げていくか、答えを出してきた。牧野の中には常に「自分で考える」ということが軸にある。このブレない核が牧野をひと回り、ふた回りと成長させたのは自明だろう。卒業後も一般企業に勤めながら、社会人チームでサッカーは続けていく。「僕にとってサッカーは自分を作り上げてくれたもの」と話した牧野。今の牧野の軸となる物事の考え方、価値観、そして人としてのあり方を教えてくれたのはいつだってサッカーだった。今後ア式の社会人チームと対戦することもあるだろう。きっとその時には、更なる成長を遂げた牧野がそこにいるに違いない。

(記事 堤春嘉、写真 大山遼佳氏)