【連載】『平成30年度卒業記念特集』第57回 小笠原学/男子サッカー

ア式蹴球男子

真の強さを求めて

 「偽りの自分との闘い」。小笠原学(社=青森山田)は早稲田で過ごした四年間をこう表現した。4年時までなかなか出場機会に恵まれず、つらい事が多かった。自分のしたいサッカーとチームから求められるサッカーとの差に葛藤し、偽りの自分を必死につくってプレーをする日々。仲間と真の信頼関係を築き「本当の自分」に成長していく小笠原の四年間を振り返る。

 小笠原は母親からもらったサッカーボールがきっかけで5歳からサッカーを始めた。魅力にどんどん引き込まれ、気づいたら当たり前のように生活の中心がサッカーとなっていた。上のレベルでプレーがしたいと小学3年時から中学卒業までクラブチームに入り、その後は高校サッカー屈指の強豪である青森山田に進学。初めて見たトップチームの練習では現在日本代表にも選ばれているDF室屋成(現・FC東京)らの大人のような体格とハイレベルなサッカーに大きな衝撃を受けた。多くのタイトルを獲得している青森山田には様々なバックグラウンドをもった選手が全国各地から集まる。「本気でサッカーと向き合う人しかいない」が故に喧嘩をすることも多かった。その中でも必死に食らいつく日々が実を結び、小笠原は徐々に試合に絡めるように。3年時にはキャプテンを任され、ピッチ外の仕事や寮での生活にも気を配ることを意識した。これが小笠原の早稲田での生活の土台になったという。

持ち前の対人の強さでボールを奪う小笠原

 ア式蹴球部にはランテストと仮入部期間を経て無事に入部。トップチームの練習に参加し、高校時代の名残で周りを見て率先して仕事をする小笠原は学年リーダーを務めることに。しかしこのまま順調に全てが上手くいくと思ったのは束の間。高校の頃と違い、学生が中心となる環境に戸惑いを隠せずトップチームで練習することは減っていった。仲間に相談することもできず、自分のしたいサッカーとチームから求められるサッカーとの差に葛藤し迷いながらプレーをしていた。同期が試合に出て活躍する中、小笠原は学年を重ねても試合に出られず、「悔しくてつらい時期だった」と振り返る。

 4年に上がる直前、何にも縛られずサッカーだけに集中して楽しくプレーをする期間があった。「大学に入ってこんなにサッカーが楽しいと思ったのは初めてだった」と自分が思う反面、仲間からの反応は予想外のものだった。好きなように自由にプレーをする小笠原はスタッフに怒られることも。チームとしてプレーをするには周りとのバランスを見なければいけない、このチームに所属するなら責任を果たさなければいけない、と強く感じ4年時には新入生を指導する役職である新人監督に就いた。他の選手よりもピッチ内外で積極的に行動し、手本として見られていることに慣れている小笠原にとって最適の役職だった。権限のある役職に就き、一人で悩んでしまいがちの小笠原は岡田優希前主将(スポ=川崎フロンターレU18)をはじめ、仲間に頼ることができるようになっていった。自分だけで仕事を背負わず、ピッチ内外のオンオフをはっきりすることでプレーにも影響が出るように。関東大学リーグ戦(リーグ戦)では初戦からベンチ入りし、「どっちか一方じゃなくてもいいんじゃないかな」と自分のしたいサッカーとチームから求められるサッカーの両方のバランスを上手くとることを意識した。7月には念願の早慶定期戦にも出場し、チームに欠かせない存在となっていった。リーグ戦では毎試合出場するわけではなかったが、試合の流れを変えるキーパーソンとして貢献してきた。相手のプレーを予測し、先に動いてボールを確実に奪う。サイドを駆け上がり攻撃にも積極的に絡む。自分の得意なプレーを生かし、求められるサッカーにも答えた。小笠原だけでなくチーム全体が試合を重ねるごとに成長し、リーグ戦は見事優勝。1年時に先輩たちが見せてくれた景色を自分たちも後輩たちに見せることができた。

 「ずっとプロ選手になりたかった」と卒業後も選手として競技を続けたいと思い続けてきた。しかしプロの道へとそう簡単に進むことはできない。サッカー以上に打ち込める仕事を見つけることができなければお金にならなくてもサッカーを続けていきたい、とまで覚悟をした。悩んでいることを家族に相談し、姉の影響で記者という職業に興味をもちインターンを経てサッカー以上に打ち込めると確信し、記者の道に。選手としては続けないが、「自分からサッカーは切り離せない」とサッカーは大きな財産となっている。今後もサッカーで学んだことを次のステージで生かしてくれるだろう。小笠原の書く記事が多くの人の心を動かす日は遠くない。

(記事 大山遼佳、写真 守屋郁宏)