【連載】『平成30年度卒業記念特集』第56回 高岡大翼/男子サッカー

ア式蹴球男子

チームのために戦い続けた副将

 関東大学リーグ戦(リーグ戦)の優勝が決定した第20節、東京国際大戦。試合終了間際の87分に交代でピッチに入っていったのは高岡大翼前副将(社=広島皆実)。2-1でリードはしていたが、相手の猛攻撃が止まらず一瞬の油断も許されない。緊迫した状況を乗り越え、早稲田は3年ぶりの優勝を手に入れた。優勝決定の瞬間にピッチにいたものの、驚きの気持ちが大きく高岡には実感が沸かなかった。帰りのバスで早稲田での色々な出来事を振り返って考えていると、改めてたくさんの人に助けられたと感じる四年間だった。

 小中高で常にキャプテンを務めてきた高岡に転機が訪れたのは高校3年時。試合に勝てず歴代最弱と呼ばれ、どん底の状態にいたチームをどう救えばいいのか。悩んでいた高岡は当時監督を務めていた藤井潔元監督に早稲田の練習に参加するよう勧められ2泊3日で一人広島から東伏見へ。全日本大学選手権で優勝した日本一のチームの練習に参加し、「これが本気ってことか」と圧倒された。代表に選ばれていたとしても、過去に輝かしい経歴を持っていたとしても、そんなことは関係ない。全員が死ぬ気で走ってサッカーと向き合って言い合える環境が早稲田にはあった。高岡は「上手いチームじゃなくて、人として強くなれるチームがいい」とここに進学するしかないと心に決めた。広島に戻り、嫌われてもいいと覚悟をもってチームの甘さを全て排除した。絶対に勝ちたい。その気持ちが大きな原動力となりチームは徐々に成長していった。全国高校総体の予選で負けた相手に再び決勝であたり、PK戦の末に勝ち切って全国高校選手権出場が決まった。逆境から立ち直って達成された目標には早稲田での練習参加が大きな影響を与えていた。

リーグ戦第20節・東京国際大戦で交代する高岡

 高校1年時に選ばれた国体で3位だった経歴を使って早稲田の自己推薦入試を受けたが、結果は不合格。浪人するか他の大学に進学するかギリギリまで悩んだ。その時「早稲田に恩返しがしたい」とふと思った。早稲田の練習に参加していなければチームを引っ張ることも、選手権に出場することできなかったかもしれない。浪人を決めて早稲田を目指す理由としては十分だった。そこから予備校に入り、大好きなサッカーを全くしない生活が始まった。センター試験か一般試験で受験をする予定だったが、念のために受けた自己推薦入試でまさかの合格。思っていたよりも早い段階で早稲田への入学が決まった。勉強漬けの日々から一転、2月の新チーム始動に向けて走り込みの日々が始まった。一年間全く動いていない高岡の体は悲鳴をあげていたが、何とかランテストには一発で合格。体の感覚を取り戻すのに最初は自分のことで精一杯で余裕がなかった。

 最終学年になり役職を決める際、自分にできることは何かと考えた。サッカー面で引っ張ることはできないかもしれないけど、ピッチ外に目を配りチームを1つにまとめることには自信があった。本当に信頼し合って自分たちの持っているベストなパワーが試合で出せるようにしたいという強い気持ちがあり、副将に立候補。チームの方針に疑問を持っている選手やケガで悩んでいる選手などに積極的に声をかけ、全員が同じ目標に向かっていけるように努め、チームのために尽くしてきた。試合にスタメンで出場することは多くはなかったが、高岡の存在がチームにとってプラスに働いていたことは誰から見ても明らかだった。

 四年間を振り返るとたくさんの人に助けられ、リーグ戦優勝という最高のかたちで早稲田での生活を締めくくることができた。古賀聡前監督(現・名古屋グランパスU18監督、平4教卒=東京・早実)が築いた基盤を大事にし、外池大亮監督(平9社卒=東京・早実)の自由で生き生きとしたサッカーとのバランスを保つことを意識したことで新体制にも適応することができた。卒業後は一般企業に務める傍ら、会社のサッカー部で競技を続けるという。「人間として成長できたのは早稲田に来たから。あの時浪人してよかった」と胸を張って高岡は話した。目標に向かって諦めないで努力し続けられる高岡はきっと新しい環境でも必要とされる存在になるだろう。

(記事 大山遼佳、写真 守屋郁宏)