【連載】『平成30年度卒業記念特集』第59回 熊谷汐華/女子サッカー

ア式蹴球女子

主将を通じて得た『自分』

 「サッカーの面だけでなく人としても成長できた。ア女に入ってよかった」。熊谷汐華前主将(スポ=東京・十文字)は縦へのドリブル突破を活かし、主力として1年生から多くの試合に出場。4年生では主将を務め、常にチームの中心選手として活躍してきた。そんな熊谷のア式蹴球部女子部(ア女)での四年間を振り返る。

 熊谷がサッカーと出会ったのは小学生の時。仲の良かった男友達からクラブチームに誘われたことがきっかけだ。周りにサッカーをやっている女の子がいなかったが、同級生が親しく接してくれたこともあり、やりづらさは感じなかったという。中学生の時には2つのクラブチームと部活動に所属しサッカー漬けの日々を送った熊谷は、長野県選抜に選出されるなど着々と実力を伸ばしていった。高校は名門・十文字に進学。上下関係など厳しい環境に身を置かれたことで、技術面だけでなく精神面も鍛えられたという。そして「いつの間にか(早稲田を)意識していた」と憧れの早大へと入学し、ア女へと入部した。

主将として存在感を示した熊谷

  ア女に入部した直後、熊谷に転機が訪れる。それはサイドハーフへのポジション変更だ。高校まではボランチなど中盤でのプレーが多く、パサーとして活躍してきた熊谷。はじめは従来のプレーに縛られ、サイドハーフらしいドリブル突破ができずに苦労したという。しかし、春先に行われたノジマステラ神奈川相模原との練習試合をきっかけに、ドリブルに手応えをつかむ。その後徐々にサイドハーフでのプレーに自信をつけると、1年生ながらスタメンに抜擢されるなど多くの試合に出場し、実戦経験を積んだ。2年生からは同期であるMF大井美波(スポ=大阪・大商学園)とポジションを争うこととなり、スタメン出場と途中出場を繰り返した熊谷。特に3年生の時には、安定して結果を残していたのにも関わらず、スタメンに定着できず精神的に苦しい時期もあったという。それでもインカレの準決勝で途中出場ながら1ゴール1アシストを記録しチームを逆転勝利に導くなど、スーパーサブとして活躍。与えられた出場時間の中でしっかりと結果を残し、関東女子リーグ戦(関東リーグ)9連覇や皇后杯ベスト8、インカレ3連覇などに貢献した。

 そして迎えたインカレ4連覇を目指すラストイヤー。熊谷は周りが見えているといった同期からの推薦がきっかけで主将を務めることとなった。「自分が(チームを)引っ張るというより、自分がみんなを後ろから支える」。2、3年生時の経験を生かし、試合に出てない人への配慮など陰からチームを支える主将を目指した。関東リーグは2試合を残し、10連覇の偉業を達成。しかし「(関東リーグは)個の力で勝ったイメージ」とチームとしてあまり戦術などを決めず戦っていたという。すると、関東大学女子リーグ戦では序盤チームとして連携がうまく合わない場面が続く。チームとしてもっとやらないといけないと危機感を覚えた熊谷だったが、他人の目を気にしてなかなか行動に移せない。チームがうまくいっていないことを他人のせいにした時もあった。そんな時、父との口喧嘩を通じて、自分の甘さを痛感した熊谷。「自分が(チームを)引っ張らないといけない。他人の目を気にせず、自分がやりたいようにチームを作る」と考えを改めた。関カレは2位、皇后杯は2回戦敗退に終わったものの、リーダーシップを発揮し、徐々にア女を1つの『チーム』としてまとめあげた。そして迎えたインカレ。ア女はショートカウンターを軸に勝ちを重ねていく。熊谷も準決勝で2ゴールを挙げるなど奮闘した。しかし、決勝で日体大に惜しくも敗れ、目標であった4連覇を達成することはできず。「厳しいところは厳しくやればよかった。主将としての甘さが出た」と振り返ったが、一時調子を落としたチームを立て直し、四年連続でインカレの決勝の舞台に導くなど、ア女の主将を見事務めあげた。また年間を通じて調子を維持し、大事な試合でゴールを決めるなどポイントゲッターとしての活躍も目立った。

 熊谷は主将を務めた一年間で「より自分を出せるようになった」と語る。もともと自分の意見をはっきり言わず、他人の意見に流されるタイプだったが、主将を務めたことで他人のことを気にせずに、自分で決めたことを最後まで貫けるようになったのだ。そんな熊谷が卒業後の進路先として選んだのは、攻撃的なサッカーが特徴であるスフィーダ世田谷FC。練習参加を通じて、サッカーが自分のプレースタイルに合っていると思い、入団を決めた。「勝負の世界で生き残るには、自分にしかないものを出していかないといけない」。ア女での四年間でひと回りもふた回りも成長した熊谷。得意なサイド突破を武器に、きっとプロの世界でも活躍してくれることだろう。

(記事 永池隼人、写真 柴田侑佳)