仲間と出会えたこと
高校まではキーパー、大学2年の秋からはフィールドプレーヤー。そして、最後は再びキーパーに。古屋萌杏(スポ=埼玉・飯能)の大学ホッケー生活は変化が大きい4年間となった。そんな中、どんな思いで過ごしてきたのか。これまでの競技人生とともにひもといていく。
古屋がホッケーに出会ったのはまだ小学生のとき。幼なじみとともに地元のホッケー教室に足を踏み入れたのがきっかけだった。そして中学からはホッケー部に所属して本格的に取り組み始めると、高校では全国高校総体でベスト4入りを果たすなど着実に力をつけ、大学まで自然とホッケーを続けてきたという。長い競技人生を振り返って、「つらいことはあった」と正直な気持ちを口にする一方、節目節目で「やっててよかったな」と感じられたのが、10年以上ホッケーを続けてきた理由。「同期にすごく恵まれていた」。中学、高校、大学とホッケー部で過ごしたことを回顧していると、『仲間の存在』が何度も古屋の口から出てきた。
最後の早慶戦でキーパーを務める古屋
早稲田への進学については、ホッケーを続けることを軸に考えていた。その上で 「(他の大学は)一切考えていなかったと言っていいくらい、早稲田がいいなって」。そんな強い思いで入学。大学での競技生活は、古屋にとって変化の大きい4年間となった。1年時は中学のときからの憧れだという南有紗(平30スポ卒=現グラクソ・スミスクラインOrange United)とともに練習に励み、「とにかく楽しくて幸せな1年間だった」と懐かしむ。中高でもキーパーを務めていた古屋だが、大学に入ってさらに学ぶことが増え、成長を感じられた1年だったという。2年の秋には、フィールドプレーヤーに転向。また、純粋にプレーを楽しんでいた1年時とは変わり「どうしたらチームに貢献できるか」を考えることが増え、プレー面でも精神面でも成長し続ける毎日を送った。
ポジションに慣れてきた3年時には、自分に足りない部分が見えるようになり、悔しさを感じるようになった。それでも「点を決めたときにチームメートの喜ぶ顔を見られたときはすごくうれしくて」と、キーパー時代とはまた違うやりがいを感じることができたという。また一番うれしかった出来事が起きたのもこの年だ。全日本大学王座決定戦の中京大とのSO(シュートアウト)戦で、勝利を意味する3点目を自分のシュートで決めた瞬間。大学3年時以前はずっとキーパーだったため「自分が点を止めてみんなが駆け寄ってくれるとかはそんなになかったのですが、自分が点を決めて、笑顔でみんながワーっと走ってきてくれるのが本当に新鮮だったし、うれしかった」と、今でもその場面を鮮明に覚えているという。
3年時の全日本大学王座決定戦。中京大とのSO戦で勝利を決定づけ、チームメートに囲まれる古屋(16番)
4年時は「全力疾走」と振り返るように、様々な変化の中でチームのことを考え、自分とも向き合い、悩んだ1年間だった。まず競技面では、上級生の卒業に伴い再びキーパーに。さらに、主将への抜てき。1年半ほどキーパーとしてのブランクがあった状況で、なかなか感覚が戻りきらず「自分に自信を持てないのにチームを引っ張っていかなければならなくて、そこがかなりつらかった」と、主将として目指す姿と、自分がキーパーとして満足のいくプレーをできていないギャップに苦しんだ。「あまり周りには言っていませんが、ちょっとつらい、辞めたいなと思ったことはあった」とこのときのことを振り返る。
そんな古屋を支えたのが『仲間』だった。特に、「家族みたい」だと表現する同期の存在は、自分の原動力だったと語る。同期の橋本実結(社4=東京・早実)はディフェンス面で、南家未来(教4=京都・立命館)はフィールドプレーヤーの目線からのアドバイスや、練習を仕切るという部分でも支えてくれたという。また、後輩たちに対しては「至らない姉を妹たちに支えてもらっていたな」と感謝を口にし、「今の自分があったり、ホッケーをやってきて良かったと言えるのは、仲間に出会えたこと」が一番大きいと語った。さらにプレー面でも、キーパーがフィールドを自由に動かしてそれに合わせてもらうのがセオリーだが、「一人一人の特徴に合わせて息の合ったプレーをしたい」という信念のもと、キーパーからの指示を、「一人一人に合わせて変えながら出そう」と、仲間思いの古屋らしいプレーを目指した。
古屋にとってホッケーは「自分を作り上げてくれたもの」。仲間との出会いも、「一人一人の思いをキャッチする」ことの大切さを学んだのも、ホッケーがあったから。将来は仕事のかたわらコーチになりたいという夢も抱いている。これから社会に出ても、再びフィールドに戻ってきても、そこで出会う新たなチームで、きっと古屋は輝いていくだろう。
(記事 布村果暖 写真 布村果暖、山田流之介氏 )