【連載】『令和2年度卒業記念特集』第61回 中村康祐/準硬式野球

準硬式野球

笑顔の先に

 「22年間生きてきた中で一番濃い4年間だった」。中村康祐(教=早稲田佐賀)は早大準硬式野球部で過ごした時間をこのように振り返る。1年時から試合に出場し、徐々にチームの中核となっていった中村。3年時には東京六大学リーグ戦連覇や全日優勝にも貢献し、ラストイヤーは主将として、捕手としてチームをけん引した。野球と共に歩んだ、その軌跡をたどった。

 小学校4年から野球を始めた。初めて早稲田大学を意識したのは中学2年。父親に連れて行ってもらった早慶戦で、当時大石達也(平23スポ卒)や斎藤佑樹(平23教卒=現日本ハムファイターズ)が活躍していた早大を目の当たりにした時だった。特に地元の福岡県出身である大石の雄姿を見たことは、中村にとって大きな刺激となったそうだ。これを機に、徐々に早大への憧れが生まれたという。さらに、早稲田佐賀高が県大会で優勝し、甲子園出場を果たしたことから、早稲田佐賀高への入学を決意した。

 その後早大に入学した中村は、「大きな舞台でやりたい」という思いから硬式野球部に入部する。だが、入った早大野球部は想像以上に過酷な環境だった。「自分がついていけなかったので、諦めたという感覚が近い」。そんな時、高校時代の先輩に誘われて見に行ったのが早大準硬式野球部。学年の壁を感じないフレンドリーさ、そして何より伸び伸びと野球ができる環境に魅力を感じた。そこから準硬式野球部への転部を決める。すると、1年夏からAチームに合流し、高校時代で経験のある捕手で公式戦の出場機会を得るなど、入部して間もなく戦力としてチームに貢献した。出場した試合では上々の成績を残し、野球をプレーする楽しさを体感した一年となった。

3年次春季リーグ戦で本塁打を放つ中村

 しかし、2年になると思うように打てない時期が続く。試合への出場機会も増えている中で、「出場したからには打たなければ」という気持ちが先んじてしまい、空回りしてしまったのだ。チームの雰囲気に助けられながらなんとか乗り越えることができたが、結果が出ずに苦しい時間が続いた。だが、その後増えた代打での出場機会が活路となる。自分の打撃に集中できるようになったことで、徐々に調子が上向きとなった。そして迎えた3年では、自身の経験でも最高と言わしめるほどの一打が飛び出す。東京六大学春季リーグ戦法大戦。第1回戦、絶好機で試合をひっくり返す適時二塁打を放つと、優勝決定戦となった第2回戦では2ランを放ち、勝利を決定づけた。苦しい時間や代打での経験を糧に得られた自信が、中村をステップアップさせたのである。

 主将に就任した4年。「大変な一年になるだろう」と意気込んでスタートした一年は、思わぬ災禍に見舞われることとなった。関東地区大学選手権(関東大会)は開催できたものの、その結果出場権を獲得した全日は新型コロナウイルスの影響で中止。全日連覇を目標にしていただけに、悔しい発表であった。だが、全日代替大会などの開催が発表され、チームはしっかりと前を向くことができた。そして、チームは全日代替大会2位、東京六大学秋季リーグ戦2位という結果を残す。優勝こそできなかったが、中村の言動から確実な結果を残せた要因が垣間見える。「引きずってもいいことはない」「本当に良いチームだと思った」。主将、捕手を務めたことで、自身の調子を整えられず、不振に苦しんだ時もあった。優勝目前で敗戦し、涙をのむこともあった。しかし、どんな時でも下を向かずに常に前を向いていた中村がいたからこそ、チームは落ち込むことなく戦い抜くことができたのだ。

早慶引退試合で捕手を務めた中村

 「自分たちが卒業したら寂しいと思ってもらえるようなチームに」という思いをもってスタートした主将としての1年。約100人の部員をまとめる中で難しさを感じることもあった。多くの部員が所属しているということは、その部員の数だけ考え方があるということ。その考え方ひとつひとつに間違いはなく、正解もない。だからこそ、部員の総意を運営に反映すること、そして多様なチームメイトを一つの目標へ向けて引っ張っていく難しさを常に感じていた。しかし、その日々は苦しさ以上に充実したものがあった。「準硬に入って良かった」。早大準硬として過ごした4年間を、このように振り返る。準硬らしい賑やかな空気や、仲間達と過ごした楽しい時間が支えとなった。そして、かけがえのない日々は、中村の今後の人生にとって大きな財産となるはずだ。

(記事 小山亜美、写真 池田有輝、小山亜美)