8月、灼熱(しゃくねつ)太陽の下、マウンドにキラリと光る背番号『18』。杉山周平(教4=神奈川・山手学院)だ。昨秋、肩を負傷して以来、長らく登板できずにいた杉山が、帰ってきたのだ。もう選手としての未来は描けない。そんなどん底からの再起。それは、チームの誰もが待ち望んでいたエースの帰還だった。
はじめのけがは昨春の関東地区大学選手権(関東大会)だった。肘のけがをし、東京六大学春季リーグ戦(春季リーグ戦)を棒に振ることに。18番をつけ、自分が中心になって投げていく。そう決意をして望んだ最初の大会でけがをし、昨春のリーグ戦をもどかしい思いで過ごした。
清瀬杯優勝を決め、両手を突き上げる杉山
そのけががようやく治り、夏の清瀬杯全日本大学選抜大会(清瀬杯)では先発投手として活躍。胴上げ投手にもなるなど、エースとしてこれからという時期だった。そんな時、再び悲劇が襲う。肩が痛い。登板後、肩が痛むのはいつものことだった。だが、いつも治っていたはずの痛みが消えない。おかしい。その後も治ることはなく、昨秋の2カード目で杉山は戦線離脱。チームはリーグ優勝をしたが、そこに杉山の姿はなかった。
「選手として投げることはもう結構難しい」。一向に改善の兆しが見えないリハビリを続けながら、杉山は次第にそう感じるようになっていた。終わりの見えないリハビリ。描けない投手としての今後。投げられない中、どうやってチームに貢献していくか。考えた末、選んだのは監督補佐になることだった。チームメイトに思いを伝え、始まった監督補佐としての活動。「チームのため」。それだけを考え続けた結果、見事リーグ連覇を達成する。自分の代での優勝にうれしさはひとしおだったが、そのころには「選手として野球をするということはあまり考えていなかった」という。
今春は池田監督(左)の補佐として活躍した
そんな杉山を再び動かしたのは同期の言葉だった。「お前も投げてくれよ」。その言葉が、もう復帰できなくてもいい、そう思っていた杉山を再び動かした。投げられない間も仲間は『18』というエースナンバーを杉山から外さずに待っていてくれた。もう一度。最後にもう一度投げたい。期待してくれる仲間からの言葉を支えに、再びマウンドに上がるため、必死にリハビリを重ねた。
全日優勝の瞬間。吉田龍平主将(スポ4=東京・小山台、手前)が杉山に駆け寄る
そしてこの夏。35年ぶりの全国制覇を成し遂げたマウンドに杉山の姿があった。背番号『18』も、白い歯が光る笑顔もあの頃のまま。それは、みんなが待っていたエースの復活だった。やはりエースという響きと背番号『18』が杉山にはよく似合う。けがをした昨秋以来、先発はしていない。それでも、池田訓久監督(昭60教卒=静岡・浜松商)は杉山を『エース』と呼ぶ。強力な2年生投手や、信頼できる同期の投手もいる。それでも、「自分がチームの中で一番いいピッチャーだとどこかでは思っている部分がある」(杉山)。エースとしての自負を持って挑む、最後の秋。「僕が打たれたら負けくらいの気持ちで」。背番号『18』への責任を胸に、チームの優勝のため戦う。さぁ杉山、その一球に懸けろ!
(記事 金澤麻由、写真 金澤麻由、池田有輝、小山亜美)
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コメント
杉山周平(教4=神奈川・山手学院)
――昨年の3月の関東大会でけがをした後、登板したのは8月の清瀬杯ですか
そうですね。
――あの時けがしたのは
肘です。
――その後、秋にもけがをされましたが、同じ場所ですか
いえ、秋は肩です。
――関東大会から清瀬杯までの間投げられませんでしたが、その間焦りなどはありましたか
ありましたね。その時は江藤(健太、教4=早稲田佐賀)とかが投げていて。チームも負けていましたし、春、3年生になって自分が中心になって投げていこうという気持ちだったのにもかかわらず、投げられなくなってしまったので自分自身としても悔しかったですし、チームに対してもすごく責任を感じていました。早く復帰したいな、と思っていましたが、なかなか思うようにいかずに夏までかかってしまいました。そこは、この四年間を振り返って、自分の中で悔しかったと思うことの一つですね。
――秋、法大戦の後けがをされましたが、急なけがでしたか
いえ、元々あまり肩の調子は良くなくて。1、2年生のころから良くありませんでした。それでも、先輩方に話して、うまく休ませてもらいながらやっていました。(けがをした法大戦では)試合前から(肩が)痛いなと感じていて、わりと限界の中長い回を投げたのですが、試合に負けてしまって。けがもしてしまい、あそこから投げられなくなりました。
――ずっと痛かった肩が、あそこから治らなくなったということですか
そうなんです。投げた後に痛いということは今までもありましたが、治って投げてきました。ですが、投げられなくなってしまって。その時は一つ上の先輩の代だったのですが、仲のいい先輩方となかなか一緒に試合に出ることができなくて。諏訪さん(健太氏、平31スポ卒)や中村さん(大輔氏、平31商卒)であったりにすごく申し訳なかったですし、あの一年が一番悔しい一年でした。
――そこからずっと全日の前まで投げられなかったということですね
冬になってもなかなか良くならなくて、本当に選手として投げることはもう結構難しいのかな、と思っていた時期もありました。ですが、投げられない中でもチームにどういったかたちであっても貢献したいと思っていました。去年の諏訪さんのようなポジションでベンチに入れてもらえるのであれば、やらせてほしい、と4年生のみんなに伝えました。そういったかたちで春はスタートして、優勝という結果を何とか残すことができました。そこに少しでも貢献できたことはうれしかったです。ただ、4年生のみんなが「お前も投げてくれよ」と声を掛けてくれて。春あたりは選手として投げられなくても、もうこのまま終わってもいいと思っていたのですが、その言葉があったからこそもう少し頑張って最後に投げたいという気持ちでリハビリを頑張ることができました。こうして今投げられているのは、そういった声があったからなのかなと思っています。
――治るか分からない中でのリハビリはいかがでしたか
本当に治るか分かりませんでしたし、まぁ治らないんだろうなと思っていました。特にこれといったきっかけはありませんが、やれることはやっていた中で、春の終わりごろにキャッチボールをしてみたところ、良くなっているなという感覚がありました。そこから少しずつ距離を伸ばしていきました。春が終わってキャッチボールをした後からは、いけるなという感じでしたが、それまではあまり選手として野球をするということはあまり考えていませんでした。
――選手として出ていない中で、チームが優勝した時は選手として悔しいという気持ちはありましたか
その時はもう選手としてという気持ちからは遠のいていて。最初はやはり自分が投げたいなという気持ちもありましたが、次第にどうすればチームをいい方向に導くことができるかということに必死でした。なので、優勝した時は、選手として悔しいという気持ちはあまりありませんでした。素直に自分の代で優勝できたことがうれしかったです。
――投げられない中でも、18番をつけていらっしゃいました。それについてはどう感じられていましたか
18番というのはすごく重いものだと思っています。2個上の黒須さん(裕太氏、平30人卒)という偉大な方から受け継いでいただきました。僕がなかなか思うように成績を残せていない中でも連絡をくださったりして。同期の人が外さないでいてくれた、誰かが変えないでいてくれたと思っています。僕にとってすごく重い番号です。
――周りが期待をして待っていてくれたということですね
だからこそ、18を背負っていながら投げられないということはすごくもどかしかったです。
――監督補佐として活動される中で、選手としての活動に生かされたことはありましたか
やはりチーム全体をできるようになりました。今までは、自分の成績、自分がいいピッチングをして結果勝ちにつながればいいと思っていました。そこから、チームが勝つためにどんないい動きができるかということを考えるようになりました。今の抑えというポジションも、今の自分であれば抑えが一番貢献できるのではないかということを吉田(龍平主将、スポ4=東京・小山台)だったりに伝えて、こうしてやっています。そういったチーム全体を見ること。あとは後輩にも前よりは声を掛けられるようになりましたし、周りを見てチームが勝つためにはどうすればいいかを前よりも考えられるようになったと思います。
――今は先発へのこだわりなどはないということでしょうか
そうですね。今は、清水(佑樹、スポ2=早稲田佐賀)があのように投げてくれているので、いいと思いますが、今は第2先発をどうしようかという状況にあります。チームとして僕が先発することがいい方向にいくのであれば、先発したいなと思います。個人として先発したいという気持ちはありませんが、チームとしてそれが最善なのであればやりたいです。
――昔は先発へのこだわりはありましたか
いや、ありましたね。先発して完投することが一番だと思っていましたし、途中で代えられたときはベンチでキレたりしていました(笑)。ですが、そういう時あって良かったと思います。あの頃があったから、今の2年生とかにもこの経験からアドバイスもできますし。
――けがを経ての成長ということですか
成長なんですかね(笑)。分からないですけど、丸くはなりました(笑)。
――今年は昨年に続いて胴上げ投手になりましたが
うれしいですね。みんなが最後に投げさせてくれて。去年も諏訪さんたちが最後はお前がいけ、という感じで送り出してくれましたし。最後あの輪の中にいるというのはうれしいですし、なかなかできない経験だと思います。それをさせてくれたチームメートや監督(池田訓久監督、昭60教卒=静岡・浜松商)には感謝しています。
――今は先発としては投げていないですが、池田監督は『エース』と呼んでいます。ご自身ではエースとしての自覚や自負などはありますか
そこはやはり、自分がチームの中で一番いいピッチャーだとどこかでは思っている部分があります。僕が打たれたら負けくらいの気持ちで、18番を背負っている以上、自信を持って投げたいと思っています。
――最後に、これからも秋は厳しい状況が続きます。最後のシーズンですが、意気込みをお願いします
投げる回数も少ないですし、あと残る試合も少ないです。きょうも、あと何試合かしか投げられないので楽しもうと思い、一球一球ベストな球を投げることに集中していました。それをこれからも続けていくだけだと思うので。四年間バッテリーを組んできた吉田に投げられるのも最後だと思いますし、それをかみ締めて投げたいです。また、自分のピッチングが最後に優勝、いい結果につながればいいと思います。