【連載】『令和2年度卒業記念特集』第57回 丸田敦司/男子ラクロス

男子ラクロス

『弱さ』と向き合う

「自分の『弱さ』を〜」、「自分の『甘さ』を〜」。このような言葉をインタビューでよく口にした。早稲田大学男子ラクロス部を主将として率いた丸田敦司(商=埼玉・早大本庄)は、ラクロス競技を通して自身の内にある『弱さ』と向き合い続けてきた。

 大学入学と同時に、小中高で続けてきた野球に区切りをつけた。ラクロスは大学から始める人がほとんど。皆スタートラインが一緒であるため、日本一を本気で目指せる。高校までチームスポーツで優勝を経験したことがなかった丸田は、その魅力に惹かれ、4年間をラクロスにかけると決めた。2年次の関東学生リーグブロック戦・中央大戦で初めて長時間出場して以降、安定して試合出場し、下級生ながら上級生に混ざって経験を積んでいく。

 

相手ディフェンスをかわしボールを運ぶ丸田

  しかし3年になった春、やりたいプレーができなくなった。「3年も引き続き試合に出られるというおごりがあったのかもしれない」。当時をそう振り返った。丸田はDMF(ディフェンスミッドフィルダー)というポジションで試合に出場していた。AT(アタック)とDF(ディフェンス)のつなぎ役とされるMFの中でも、DFに近い働きをする。ただ、最終的にはオフェンスとして活躍することを目指していた丸田は、そのための練習を積んでいた。しかし早慶戦前、当時の主将から「チームのためにDMFで出てくれ」と声を掛けられた。「実際はオフェンスで通用しないからそう言われたのだと思う」。丸田は主将の言葉を文字通りに受け取らず、自分なりに言葉の真意をくみ取った。丸田の中で何かが大きく変わった。「自分の実力のなさに気付けたことで、オフェンスになるために必要なことを考え、取り組めた」。そしてこう続けた。「自分の『弱さ』を知った」。以前は不調を環境やけがのせいにしていたという丸田。大きな変化とは、自分の『弱さ』と向き合い始めたことだった。それが転機となり、リーグ戦ブロック最終戦からはOMF(オフェンスミッドフィルダー)として出場し始めた。各試合で得点も重ねていった。

 代が替わり、丸田は主将になった。新型コロナウィルス感染拡大の影響を受けて中止になっていた練習が再開し、目標に向けて動き始めた6月、丸田は大きなけがをしてしまう。「けがをした時点で主将失格だなと」。自粛中、他大の主将とけが予防のためのストレッチに努め、人一倍用心していた時のことだった。丸田は当時の自分を分析した。「ストレッチにしていること自体に満足していた。その先の目的まで考えられていなかった。これが自分の『弱さ』」。長期離脱を余儀なくされ、コロナ禍で開催が危ぶまれていたリーグ戦の代替大会・関東学生2020特別大会の開幕にも間に合わなかった。フィールドには出られなくても、ボックスから主将として言葉でチームを引っ張り続けた。「ラクロスがしたい」。その思いは増すばかりだった。大会決勝の頃には、復帰できるかもしれない。負けたら引退という中で、チームは、大会優勝を目指し、決勝まで勝ち進んだ。丸田は、決勝の舞台で復帰を果たした。相手は偶然にも宿敵・慶應。拮抗(きっこう)した展開だったが、何かが足りなかった。結果は惜しくも負けで、丸田組は大会2位で最終戦を終えた。「やっぱりラクロスは楽しい」。試合後、丸田はラクロスができる喜びを改めてかみ締めた。しかし、最後は「自分の『甘さ』に、悔いが残る一年だった」と結んだ。

 「後輩に残せたことは」という問いに「何もない」とさっぱり言い切った。そしてこう続けた。「ただ、ごみ拾いや片付けなどちょっとしたことを、やってきた。主将であっても、最上級生でも誰でもできること。その小さな行為の大切さが誰かに伝わればいいなと思って」。丸田は丸田にしかできない主将の役割を果たし、競技人生を終えた。「一つのスポーツを4年で完結させることは不可能に近い。だからこそ、1日も無駄にできない」。それがラクロス人生を通して得た学びだという。主将として、一人のプレーヤーとして、自分の『弱さ』に気付き、常にそれと向き合ってきた4年間。「競技を通して育まれた考え方はこれから先、どんなことにも生かされる」と語り、丸田は新たな道を進んでいる。

(記事 後藤泉稀、写真 後藤泉稀)