かつてのビリは、やがてエースへ――
ラジョダダ(Lajo Dada)をご存じだろうか。ヒマラヤ山脈に存在する、標高6400mほどの「かつて」未踏峰であった山の名だ。そのラジョダダの山頂に、世界で初めて足跡を残した男がいる。名を福田倫史(スポ=栃木・県立宇都宮)。世界初登頂という偉業を達成し、山岳部の長い歴史に新たな1ページを刻んだ福田の山岳人生とはいったいどのようなものなのか。福田の山岳との出会いにもフォーカスしながら、それをひも解いていく。
福田と山岳との出会いは、彼が高校生の頃にまでさかのぼる。当時、国語を担当していた教師が山岳部の顧問であり、よく山岳について語っていたという。その話を聞くうち、だんだんと山岳に興味が湧いてきたのがきっかけであった。しかし、山岳を自分ひとりで行うことは困難である。大学では山岳をやるぞと、興味は決意へと変わった。
強豪であるという理由から、早大の山岳部を選択した。しかし、入部当初の実力は「めちゃくちゃ弱かった」と自身でも語る福田。自分がまさかラジョダダへの登頂を成功させるとは、夢にも思っていなかったという。同期は高校時代山岳部で、上級生も確かな実力を持っている。部員たちと勝負をした際も、常にビリであった。その福田が実力者となる、大きな影響を与えた出来事が2回ある。1回目は1年生の夏山合宿。当時山岳警備隊を志望していた福田は、その隊員に挨拶しに行った。隊員に「なりたいならエースになった方が良いよ」という言葉を投げかけられ、自身の心に火が付いた。2回目は1年生の3月・4月の遠征である。ヒマラヤ遠征を経験し、その火を更に強く燃え上がらせた。
エースになるということを意識した福田は、成長の中で自分自身の武器を手にしていくこととなる。登山では常に成長することを心掛けた。途中で歩みを止めたくなっても決して止めない。状況判断においても、「上級生は何を考えている」「自分だったらこうする」ということを念頭に置いて行動した。そうして身についた武器は「周りが見えること」。広い視野で、いろいろなことを組み立てて筋道を立てることが出来る。エースへ向けて、着実に力をつけていった。また、新1年生が入部すると、2年生はその教育を任される。その経験も福田にとって良いものとなった。登山中、2年生は1年生の下に入り、常にその動向に気を配らなければならない。人の命を預かるという意識が、周りをよく見るという武器を強いものにした。
山頂から景色を望む
福田が大学での山岳生活で成し遂げた偉業であるラジョダダ登頂。その挑戦への準備は1年半ほど前から始まっていた。1年生春のヒマラヤ遠征後、もう一度あのような山へ登りたいという思いが胸にあった福田。3年生に進級する前の3月、先輩から「また行こうよ」と声をかけられた。数ある山の中から自分たちの求める山を探し出し、ラジョダダへ決まったのは3年生の9月ごろ。長期間練られていた登山計画だけに、愛着が次第に湧いていった。計画が認可されて登れることになった際は、「ここまで来たら絶対に登ってやる」という強い思いが芽生え、かぶとの緒を引き締めた。しかし、それでも不安は多かった。未踏峰故に情報が少なく、写真があっても20㎞先からちらっと写っているものがあるくらい。氷河故にクレバスも存在している。もしかしたら帰って来られないのではないかという不安もよぎったが、不安以上にワクワクが勝っていた。それだけに山頂からの景色は格別であった。ずっと想像していた景色を、いま自分が見ている―。世界初登頂を自分が成し遂げている―。登頂を達成した際には、思わず涙がこぼれたという。
ラジョダダ世界初登頂。大学山岳部がその実績を成し遂げたという事実は、OBから他の大学山岳部まで大きな勇気を与えた。かつて「めちゃくちゃ弱かった」ビリの男は、やがて誰よりも速く未踏峰の山頂に足跡を残すまでになった。卒業後も、山に関わる機会はあるだろうと語る福田。「まあ駆り出されるんじゃないですかね(笑)」と笑って見せた福田だが、その表情はやぶさかでもなさそうであった。福田の人生に大きな影響を与えた国語教師の存在。そしてラジョダダ登頂を経て、大学山岳界に大きな影響を与えた福田。彼の登山が、多くの人々に感動を与えていく。
(記事 伊東穂高、写真 福田倫史氏提供)