【連載】インカレ直前特集『To The GLORY』第1回 芳村優太コーチ特別インタビュー

男子ハンドボール

 『栄光』の日本一を目指す男子ハンドボール部の対談初回を飾るのは、8月からコーチに就任した芳村優太コーチ(平27スポ卒=愛知)。在学時から学生コーチとして活動し、卒業後コーチ留学のために渡仏した。そんな世界のハンドボールを見てきた芳村コーチが目指すワセダの像とは―――。

※この取材は10月17日に行われたものです。

「チームらしくなってきた」

試合中に選手に指示を出す芳村コーチ

――2、3カ月間このチームを見てきていかがでしたか

芳村 チームとして少しずつまとまるようになってきたと思います。最初に来た時はまだバラバラで、ハンドボールになっていなかったかなという印象があったので、少しずつチームらしくなってきました。

――関東学生秋季リーグ(秋季リーグ)を通してご覧になっていかがでしたか

芳村 僕が来てから新しい戦術などが入ってきたのもあって、選手自身は戸惑うこともあったかなと思いますが、そういう部分もうまく吸収して実戦でそれなりに消化できていたかなと思います。

――チームのこれからを考えるうえで一番カギとなる試合はどの試合だったと思いますか

芳村 最後の国士舘大戦だと思います。あの時点ではわからなかったですけど、またインカレ(全日本学生選手権)で国士舘大と当たる可能性もあったわけので、あの負けが負けて良かったと言えるようなインカレにしたいですね。秋季リーグはいい試合も悪い試合もありましたけど、どの試合もそれなりに意味はあると思うので、選べないです。毎試合毎試合課題を持って取り組んでいる部分もあるので、強いて言えば国士舘大戦といったところです。ずっと全勝で来ていたチームだったので。

――コーチから見たこのチームの強みは何だと思いますか

芳村 良くも悪くも盛り上がれるところじゃないですか。お祭り騒ぎができるというのは、いいところでもあり悪いところでもあると思います。それがいい方向に向けばうまく回ると思いますし。ただ明大との試合後に、選手がちょっとぬるい盛り上げ方をしていたので一喝したのですが、超一流のチームであればそんなことは言わないだろうというような言葉掛けがあって。その本人としてはチームを盛り上げようと思ってしてくれたんだと思いますけど、それは一流のチームでは起こらないだろうと思うので、それがさっき言った悪い部分だと思います。ただそれこそ筑波大戦の前半や国士舘大戦の逆転されるまではみんなで声を出していたので、そこはいい部分だと思います。

――では課題は何だと思いますか

芳村 いっぱいありますね。一つは勝者のメンタリティーを持っていないこと。運良く自分が学生の時はほとんど勝っていたので、逆に負けられないという思いがありました。あの時に比べると負けても仕方がないという選手が増えたと思います。勝ち方を知らないという意味での勝者のメンタリティーもないし、負けたらダメだというプライドという面でも足りていないですね。勝ちへのこだわりという部分でも勝者のメンタリティーは不足しています。ただそれぞれのなかには眠っていると思うので、あと2週間で呼び起こすことがスタッフの仕事だと思います。ただスタッフがどれだけやっても最後にやるのは選手なので、選手のなかから出してきてほしいですけどね。

――コーチと選手の関係性はどんなものですか

芳村 近いと言えば近いと思います。ただ練習中は一線を引くことはできていますね。選手とご飯に行くこともありますし、選手の現場の意見というか、コートのなかの意見を自分で取りにいかないといけないと思うので、そういった意味でも選手とご飯に行くことはあります。どうしても練習中はAチームを見ることが多いので、意外とご飯に行くのはBチームの選手とかが多かったりしますね。チームなので片方だけを見るわけにもいかないですし、Bチームからの意見を聞くことも大事だと思っているので。ある意味割り切ってやっています。これに関しては答えがないので、今自分がベストだと思うやり方でやっています。良くも悪くもいい距離でやっていますね。

「我々は常に強いワセダであり続けなければならない」

コーチ留学のことを笑顔で振り返ってくれた

――大学でもハンドボールを続けようと思ったのはなぜですか

芳村 成り行きですね。最初ワセダに合格した時は続ける気はなかったです。でも先生から電話がかかってきて、やるのか?という話になった時に、やります、ということになっちゃったんですよ。別にワセダでやりたい気があったわけでもないし、何となくそういう流れになりました。ただ高3の時にインターハイ(高校総体)に行けなくて、その時は確かに悔しくて、大学でもやろうかなと思ったんです。結局国体まで続けたんですが、まあいいかなとなってしまった。でもそういった時にたまたまハンドを使ってワセダに受かっちゃったんです。その時はあまりワセダも強くなくて、やるかやらないかとなったときに、強くないんだったらそこまでガチじゃないだろうと思ってやります、と言ってしまいました。そしたら僕が入った年からすごく強くなって、練習もきつくて。思い描いていたのと違うなと思いました。

――指導者を目指そうと思ったのはいつですか

芳村 指導者を意識していたのは中学生の時からですね。前からハンドボールを教えたいなという気持ちは持っていました。だから大学の授業のコース選択も教育だったし、先生になろうと思ってやっていましたから。ただ、海外の有名チームのブログを見て世界を意識し始めて、先生じゃぬるいなと。本気で指導者を目指さないと世界では戦えないと思って、海外のハンドボールを学ぼうと思いました。それが大学2年生の時ですね。選手をやりながらそういう風に考えていました。2年生の全日本総合選手権まで選手としてやって、3年生の時に1回部をやめると言いました。海外に行きたいから毎日バイトしてお金貯めますって。そしたら2週間後くらいに学生コーチでもいいから戻ってこいと話があったので、戻りました。

――その時の心境はいかがでしたか

芳村 残るうんぬんよりも、海外に行きたいという思いが強かったから、どうやってお金を貯めようかなと思いましたね。学生コーチでも、結局は練習に行かなきゃいけないわけですから、時間も取られるし。バイトする時間なくてどうしよう、どうやってお金貯めようとそれしか考えていませんでした。英語の勉強をする時間もない、バイトする時間もない、海外行けないじゃんとずっと思っていました。ただやると決めたからには学生コーチ業はしっかり取り組まないといけないとも思いました。

――それでも学生コーチを引き受けた理由は何だったんですか

芳村 全然覚えてないですね(笑)。全く思い出せない。章さん(大城氏、=沖縄・那覇西)と東伏見のハンバーガー店に行って、二人でコーヒーを飲みながら戻ってこいよという話になって、その時は答えは出せていないですけど、戻りますと言ったのは覚えています。なぜ戻るかという理由は覚えてないけど、いつの間にか戻っていました。

――ここからはコーチ留学の話になりますが、海外に行く時にどこの国に行こうとは決めていたんですか

芳村 最初はデンマークですね、ブログの影響で。もしくはドイツ。ハンドボールが有名だから。最初はその二つでした。ただ、少しずつ時がたつにつれて、同じブログの影響で(日本から)デンマークに行く人が増えたんです。それだと埋もれるなと思ったんです。だから違う国にしようと思って候補に出てきたのが、クロアチアとフランス、スペイン、ドイツ。だから大学3年生の時はドイツ語を履修していたし、英語は自分で勉強していました。大学3年の1月に世界選手権を実際に観に行ったんですよ。フランス対セルビアを見たのですが、フランスが強くて。ディフェンスが美しくて感動したんです。これはフランスに行くしかないなと思いました。それがフランスに決めたきっかけです。で、日本に帰ってから本を買ってきて独学でフランス語を勉強しました。奥住咲紀(平28教卒=東京・八王子東)がフランス語を取っていたので、咲紀ちゃんに教えてもらいながら勉強していって、4年生では国教のフランス語の授業を取りました。周りは1年生、帰国子女ばっかりで英語が飛び交ってました。そんななかでフランス語を勉強し始めましたね。なのでフランスに行く決め手はユーロ2014かな。デンマークで開催されたやつです。その時のフランスが強かったので。卒業後は実家に帰って名古屋でアルバイトしてお金を貯めました。1年間バイトした後に、フランスに行きました。

――フランスのハンドボールを見て一番衝撃を受けたことは何ですか

芳村 衝撃なんて毎日ですよ。ハンドボールに関わらずですけど、衝撃だらけだし、慣れたのがやっと帰る時くらいです。常に衝撃の連続でした。例えば日本人からすると海外のハンドボールはフィジカルでゴリゴリいって、個人技で押すイメージがありますけど、実際に見ると、ものすごく頭を使っている。練習を見てもわかります。戦術的なことばかりをやっていて、それだけでは勝てないから体づくりをやっているという感じでした。というのを目の前で見たときは衝撃でしたね。日本人の勘違いも甚だしいなって。ただ動画で海外のハンドボールを見ていただけなんだなって思いました。だから実際に現地に行って見てみるってこういうことか、と感じましたね。育成システムがしっかり構築されていて、プロになるために小さいころからずっと同じチームでできるシステムもできているし、それぞれが生き残れるかどうかは別ですけど、子どもから大人まで同じクラブでできるという環境がつくられているのはすごいと思います。そういうフランスで見てきたものを実際にやることが大事ですね。海外に行ったというだけではすごいわけじゃないし、実際に学んで感じたことを日本でどうアレンジしてやっていくかが、海外に行った人に求められていることだから、それが僕のやるべきことだと思っています。もちろんチームを強くするということも当たり前ですけど、それをやっていくことも重要だと思います。今読んでいる本の内容が、超有名企業、長期間残っている企業はなぜ残れているのか、その企業はただ残っているわけじゃなくて、常に世界中の人々に影響を与え続けていると。そういう企業が共通して持っているのは何だろう、そこには必ず基本原則がある、というものなんです。今ワセダに必要なのはそれだな、と思っているんです。結局スタッフが変わったら負ける、実際章さんがいなくなってから負けてますよね。それじゃダメなんだと。スタッフが変わっても、我々は常に強いワセダであり続けなければならないんです。それを実現するためのシステムをつくりたいですね。だから今すごく本を読んでいます。チームを強くするのももちろんだけど、それは一瞬で消え去るものだから、僕がいなくなると勝てなくなる。それは僕の一番の仕事ではないと思っています。

――そういうものを目の当たりにして、正直日本のハンドボールはどれくらい通用すると思いましたか

芳村 現状は、歯が立たないだろうと思いますね。この前の世界選手権も22位だし、なんとか世界選手権に出場するのが限界だと思います。我々が思っている以上に海外の人は本気だというのが現実です。海外では人生を懸けてハンドボールをやっている。こっちはそれが全くと言っていいほど足りていない。ただそれを部活動が主体だからとか、実業団だからという風に言い訳してきたツケが回ってきていると思います。逆にその部分は日本にしかないので、強みになりうるものだと思うんです。それをもっと生かしていかなければいけないと思いますね。その環境をうまく使えていないのが一番の問題です。この前もあるセミナーに参加したんですが、スポーツ施設の数は日本が世界で一番多いということでした。なぜなら、学校ごとに体育館とかが必ずあるから。教育施設を含めたら、日本は世界一のスポーツ施設保有国であると。結局、日本が持っている物をうまく使えないだけだと思います。絶対に部活っていうのは強みだと思うし、いくらでもやり方はあるんだろうなと思います。お金がないというのも言い訳ですね。だからワセダが変えていかないといけないかなとも思います。

――モンペリエでの生活はいかがでしたか

芳村 モンペリエはフランスの南の方なんですが、フランスは南の方がフレンドリーな感じで、北のパリなどが少し冷たいというのが特徴なんです。そもそもモンペリエは学生の街と言われるほど若者が多くて、夜も飲みなどで盛り上がってうるさいし、とてもにぎわっていたので、そういう意味では街を見ていて楽しかったですね。ヨーロッパはどこもそうなんですけど、結構都市部が密集していて、僕はその真ん中に住んでいたので、とてもにぎわった場所にいました。たまたま滞在時にサッカーのユーロがあって、フランスが決勝まで勝ち上がったんですよ。モンペリエに関わりのあるの選手がフォワードをやっていたので、とても盛り上がっていたんです。決勝進出が決まった夜には、大きな広場でみんなが爆竹や花火をしたり、噴水の上によじ登ったり、人が多すぎて歩けないくらいのにぎわいでした。そこでスポーツの力の大きさを感じましたね。逆に、モンペリエっていうチームはハンドボールが強いのに、そんなにハンドボールを知らない人も結構いたんです。僕としては、ヨーロッパなのにこんな感じなんだと思いましたね。ヨーロッパではハンドボールはメジャーと言われますが、それでも思ったほどでもなかった。モンペリエのスポーツショップでも、ハンドボールのコーナーは少ししかないんですよ。日本と同じくらい。隅に一画あるくらい。少しTシャツがあって、ボールがあって、ちょっとダサめのインシューズが並んでいて(笑)。でもそれぐらいなんです。レベルの高いスポーツショップに行くともう少し大きくて、ユニフォームなども売っていました。でもそれだけなんです。そこではやはり、サッカーはすごいんだなと感じましたね。やっぱりサッカーには全く及んでいないのだなと思いました。サッカーと比べたら商品の割合としても10分の1くらいでしたし。あとはフランスには自転車もあるので自転車も人気だし、ラグビーも人気だし。ハンドボールってヨーロッパでもそんなもんなんだというか、強いチームがある町にもかかわらずその程度なのかと思いました。それが意外でした。スポーツ用品店に関しては、ですけどね。試合になると、夜9時の試合でも人はたくさん来るし、3000人収容のアリーナでも、9割くらいは埋まる。土日に行われるビッグマッチという強いところとやる試合では9000人収容くらいのアリーナを借りてやるのですが、そこでも大体埋まる。そういう意味では、まだまだ生活にどうハンドボールが結びついているのかはわかりませんでした。もちろんみんなハンドボールのフランス代表が強いということは知っているんですよ。ニュースにもなりますから。ただ、それだけなんです。世界一なんでしょ?強いって知ってるよ、という程度なんですよ。ドイツやデンマークに行けばもっと盛り上がるとは思います、デンマークは国技ですから。でもそういうフランスが世界一なんです。これは日本もヒントになるのではないかと思います。常にハンドボールと関わって生活していますという人は思ったよりも少ないですね。これが現実でした。それってヨーロッパだからそれができるんでしょ、と言う人がいますが、全然そんなことないよというのが正直なところです。衝撃は毎日でした。

――モンペリエではどういうかたちでハンドボールに関わっていたのですか

芳村 毎日いろんなカテゴリーのチームが練習をやっていますから、毎日体育館に行って、練習を見ていました。試合の時には応援に行きますし。練習を見ていて疑問に思ったことはそのままコーチに聞きに行ったりしていました。なぜこの練習をしているのか、どうやってこの練習を思いつくのか、この中から誰がプロになれると思うか、疑問はさまざまでした。あとは例えば、フランスはディフェンスが強いと聞きますが、あなたたち(モンペリエのコーチ)から見ると、フランスのディフェンスと他国のディフェンスは何が違いますか、と。実際にやっている人から見たらどう感じているのかはよく聞いていました。選手よりスタッフの方が関わるのは多かったですね。毎日練習を見に行って、話を聞いて、とやっていました。ただそれが良かったかどうかはわからないですけどね。もっと選手と話せば良かったのかもしれないし、もしくは一緒にプレーをした方が良かったのかもしれないし、ただそこに対しては何も後悔はないです。それでも学んだことはたくさんありました。僕はそれで正解だと思っています。

――練習を見に行かないときは何をしていましたか

芳村 フランス人の友達とフランス語の練習のためというものあって、カフェで話をしたりとか、家でハンドボールの試合を見たり、フランス語勉強のためにドラマを見るなどをしていました。基本練習がないときはどれだけフランス語を上達させるかでしたね。やはり選手ではなくてコーチだから、話さないことには何も始まらないし、ただでさえ難しいと言われるフランス語なので、普通にしていたら普通のフランス語の能力しか身に付かないと思ったから、その意味では自分をどれだけ追い込めるかでした。短い時間のなかで、普通の人が身に付けられないフランス語の能力を身に付けるかは常に意識していました。なのでハンドボールに関わっていないときはフランス語の勉強をしていたし、実際に泣いたわけではないですが泣くほど勉強したというくらい必死でやっていました。早く身に付けなきゃという思いがあったので。

――ではコーチの方とコミュニケーションを取るのは全てフランス語だったのですか

芳村 全部フランス語です。英語でも話してくれるんですけどね。ここで面白いことが一つあって。急に英語で話されると英語で返せないんですよ。フランス語を話す気でいるから、急に英語が来てもフランス語で返してしまうんです。なので向こうもフランス語で話してくれました。でもやはり、フランスのハンドボールを学ぶためにはフランス語で話さないと何もならないですよね。だからそこはフランス語にこだわっていました。もちろん街中を歩いていれば英語が聞こえてきますし、語学学校とかでは英語もよく聞くから、英語も自然と身に付いてはいっていたと思いますが、基本はフランス語じゃないとダメだと思いました。また日本に帰って来たときに、フランス語を話せるコーチというのも強みだと思っています。少しでも上に行けるように、というのも考えていました。(留学の)最後の方にはフランス語の資格試験を受けたんです。日本でいうTOEICみたいなものなのですが、取りたいレベルがあったんですよ。1年滞在でこれが取れればまあまあだろうというのが、大学のフランス語専攻の子たちが1年間留学して取れるか取れないかというレベルだったんです。これを取りたいと思って。そこを狙うしかないと思って、そのテストまでの約1カ月半、練習にも行かずにずっと勉強していました。何かしらでフランス語を話せますという証明が必要だから、そういう証明書が欲しかったんです。だからそれは練習を捨てて勉強していましたよ。ハンドボールだけでは食べていけないし、就職の強みにもなると思って。その期間がフランス滞在時のきつかった時間ですね。対策用のテキストも売っているからやるんですが、テストの項目がそれぞれ25点ずつで4つあって。ただどんなにやってもそれぞれ10点ずつくらいしか取れなかったんですよ。合格点が50点だったのですが、それぞれの項目で10点も行かないことがほとんどだったから、全然ダメだと思って。それでも毎日勉強し続けて、先生にも聞いて、というのを繰り返していましたね。そのときは地獄でした。毎日フランス語を見るからフランス語も見たくなくなるし、だからといって日本語を見ると焦るからイライラするしで、大変でした。ただ結果合格できたので良かったです。60点オーバーくらいだったので、結果見た時は余裕じゃんって思いました(笑)。ただもちろんその努力があってこそでしたけどね。

――言語面以外で、私生活で大変だったことはありましたか

芳村 言葉以外はなかったかな。道を歩いていて中国人!と言われることもあったけど、それはいつもだから気にしていなかったし。文化の違いはいろいろあるけど、僕は日本人なので仕方ないですよね。知らなかった、ごめん、で済ませていました。仕方ないですからね。

――食生活などはいかがでしたか

芳村 最初はホームステイだったんですが、その家で出てきていたのでそれを食べていました。途中からはシェアハウスをしていたので、自分でつくったりしていました。別にそこまで困らなかったです。アジアの食品を売っているような店もあったから、そういうところで買ったりもしていました。ただそれではダメだなと思って、フランスっぽくフランスパンにチーズにハムに、というように気取って食べているときもありましたが。ただ僕は何も思わなかったですね。もしかしたらフランスの料理がおいしいというのはあったかもしれないですね。パンもハムもおいしかったし。食生活できつかったことは何もなかったですね。

――コーチ留学全体を振り返っていかがですか

芳村 後悔はしていないという話をしましたが、それでもまだまだできただろうなとも思います。もう1回行きたいというのが正直な気持ちですね。留学経験のある人は誰しもが言うことだと思います。そういう気持ちはありますし、フランスで学んできて、日本に帰ってきてトライしてみて。トライをしているからこそもう1回行きたいという気持ちがあるんだと思います。もう1回確認したいとかありますし。だからもう1回行きたいですね。でも後悔は全くしていないです。

「そこしか狙っていない」

ワセダに戻ってきた理由とインカレに向けて話していただいた

――帰国後の進路が決まっていないなかで、ワセダに帰ってこようという思いはあったんですか

芳村 全くなかったです。たまたま妹(芳村優花副将、教4=愛知・星城)の早関戦(早関定期戦)があって、小林(佑弥コーチ、スポ3=茨城・藤代紫水)ともお互いの留学中に連絡を取ったりして仲が良かったから、話しに行こうかなと思って観に行ったんです。そこでたまたま荒木監督(進、平5人卒=熊本商)と話をして、ワセダでコーチをやってくれと言われて、事は進んでいきました。あとは西山(尚希主将、社4=香川中央)に頼まれたというのもありましたね。

――コーチ留学を終えてから初めて教えるという場に立っていらっしゃいますが、実際にやってみていかがですか

芳村 毎日悩みはあります。どうすればもっとうまくいくのか、あのときこうしない方が良かったのか、自分もまだまだ未熟だなと思うときはあります。でも選手たちが頑張ってそれに応えようとしてくれるから頑張れますし、こっちもやらないといけないなとも思います。選手がいるからこそ自分がいるんだということを強く思います。自分のコーチングスタイルがうんぬんとか、戦術的なことではなくて、まずは選手に感謝だなと思います。選手がいないとコーチも必要ないし、彼らが頑張るからこっちもやらなきゃと思っていますね。求める人がいるから自分がやるということです。そういうなかで、フランスで面白いなと思った練習は取り入れていますし、毎日試行錯誤しながらやっています。

――自分がやりたいと思ったことはどれくらい実際にできていますか

芳村 やりたいことは、8割くらいはトライできています。ただそれが結果として出ているかといえばまだまだです。まだ期間も短いですし。ただ、選手とハンドボール観を共有できるようにもなってきているし、先は見えるようになってきていますね。あと2週間でどれだけかたちにできるかはわかりませんけど、まだまだ成長できると思っています。特にディフェンスはかなり良くなっていますね。

――フランスの美しいと言われるディフェンスを見たうえで、ワセダのディフェンスはいかがですか

芳村 もちろん彼ら(フランス)とは比べられないですけど、いいところまできていると思います。ただまだ個の能力が足りていないので、そういう意味ではまだかたちにはできていないですけど、他大学と比べたら面白いディフェンスをしていると思うし、先につながるものではあると思います。将来実業団に行くような人や、指導者を目指すうえでは、今やっている考え方は一つのヒントになると思います。ハンドボールの考え方に強みがあると思いますね。

――インカレでキーマンとなる選手は誰だと思いますか

芳村 オフェンスで言えば小畠(夕輝、スポ3=岡山・総社)、ディフェンスで言えば光也(松本副将、社4=神奈川・法政二)と羽諸(大雅、スポ2=千葉・市川)ですね。博武(伊舎堂、社3=沖縄・興南)にも期待する部分はあるし、キーマンだとは思います。でもみんな期待しています。

――勝つためのポイントは何だと思いますか

芳村 秋季リーグからずっと言っていることです。どれだけ勝ちたいと思うか、それにかかっていると思います。大会が始まってから勝ちたいと思うのでは遅くて、もうすでに勝ちたいと思ってなければ勝てないであろうし、もし現時点で勝ちたいと思っていないのなら今すぐ勝ちたい気持ちを持ってもらわないと勝てないです。そこが一番大事だと思います。それに限ると思います。こういう言い方は好きじゃないですけど、材料はだいぶ提供しているので、あとはそれを彼らがどう組み合わせて使っていくか、どうやって自分たちでつくり上げていくかだと思います。

――最後にインカレに向けて一言お願いします

芳村 ずっと言っていますが、インカレを取ることがチームの目標なので、そこしか狙っていないですし、大いにチャンスはあると思っているので、楽しみにしていてください。こうやって、わざわざ来てくれる人がいるわけだから、選手は感謝の気持ちを持ってやってほしいですね。見えている部分もあるかもしれないですけど、目に見えないところで応援してくれる人がいるっていうのは選手が感じないといけないことです。でもなかなか感じにくいことだとは思うので、それを気付かせるきっかけを与えるのがスタッフの仕事だと思っています。もっといろんな人に支えられているということを選手たちには感じてほしいです。そういう人たちのためにも、我々は勝たなきゃいけないんです。

――ありがとうございました!

(取材・編集 佐藤慎太郎、写真 佐々木一款)

阿南遼星選手(スポ1=大阪・大体大浪商)(写真右)と一緒に撮っていただきました!

◆芳村優太(よしむら・ゆうた)(※写真左)

1992(平4)年2月3日生まれ。愛知高出身。平成27年スポーツ科学部卒業。女子部の芳村優花副将(教4=愛知・星城)のお兄さんである芳村コーチは、約1年2カ月のコーチ留学を経て、ワセダに戻ってきました。チーム全員が「コーチが来てから変わった」と口をそろえて言います。インカレだけを狙ってきたという言葉通り、チームを悲願の日本一へと導きます!自分は色紙に言葉を書けないということで、近くにいた阿南遼星選手に芳村コーチのイメージを書いていただきました!