苦難乗り越え、明るい未来へ
高校時代にはリオ五輪に出場し、数々の輝かしい結果を残してきた内山由綺(スポ=東京・帝京)は、早大入学後も母でもある内山玲子コーチ(平元日体大卒)とともに戦ってきた。全日本学生選手権(インカレ)では2部優勝を守り切り、大学入学後も世界大会に出場。しかし今年度は、目指していた東京五輪の延期に突然の父との別れが重なる異例の1年に。そんな苦しい状況を打破する内山の新たな決意を、早大で過ごした4年間の軌跡とともに振り返る。
母がコーチであったこともあり、物心ついた時から体操競技を始めていた内山。所属するスマイル体操クラブは体育館を持たなかったため、クラブを転々としながら練習に励んだ。小学6年生で出場した全日本ジュニア選手権は、母に「優勝できなかったら引退ね」と言われ奮起し、優勝したという印象深い試合だという。高校時代には、日本女子代表としてリオ五輪に出場。大舞台でも冷静さを保ち、自らの演技で観客を魅了した。そして当時を振り返り、期間中一緒に過ごす時間も長かったリオ五輪のメンバーは、内山にとって特別であり、内山を奮起させると同時に「絶対的な信頼をおける仲間」でもあると語った。
お気に入りのレオタードで平均台の演技を披露する内山
リオ五輪を終え、充足感から「体操はいいかな」と感じていた内山。早大への進学の背景には、スポーツだけでなく、学びを追求できることや今後を考えたときにプラスになる部分が多かったことが決め手になったと語る。体操部では、玲子コーチと二人三脚で練習に励み、1年時のインカレから2部優勝と健闘。声援が会場を埋め尽くすインカレの舞台は、それまでの大会との雰囲気の違いが印象的だったという。NHK杯で10位に入り、ユニバーシアードの代表に決定した内山は、同年7月、本戦に出場。しかし内山は、団体では銅メダルを獲得したものの、団体だけでも悔しくない自分が悔しさを感じていないことに嫌気を感じ、長所の負けず嫌いがなくなってしまっていたと振り返る。「オリンピックに出場したい」という幼い頃からの夢を果たし、燃え尽きていた内山だったが、自分を見つめ直すことで、長所を大切にしたいと気持ちを新たにした。
しかし、3年生になり迎えた全日本個人総合選手権では、表彰台を狙うもうまく歯車が合わず、良いスタートを切ることはできなかった。それでもインカレ前に出会ったトレーナーの指導により、考え方が変わり良い流れになっていった内山は、インカレで好スコアを記録し2位以下に大差をつけることに。東京五輪に向けて、経験を糧に着々と準備を進めていた。
しかし、内山にとって、大学生活を締めくくる4年生は異例の1年となった。年明けすぐには新型感染症が拡大。内山は母がコーチであったことから、苦境に屈せず家や公園でトレーニングを続行したが、本命の東京五輪は延期が決定した。表向きには「時間ができた」とポジティブな発言をしていたものの、ショックと不安に襲われていたという。それにもかかわらず、同級生のトップアスリートから成る「97年会」では、スポーツで世の中を元気付けようとリモートで話し合い、歩みを止めなかった。「(97年会は)モチベーションが落ちそうなときに、自分だけが苦しいわけではないこと、今できることは何かということを考えさせてくれた」。SNSを通してトレーニング動画などの発信を続けた内山は、スポーツが与える影響の大きさを実感すると同時に、スポーツについての考えを深めた。ところが8月、研究熱心で化学者として活躍していた内山の父が突然の他界。気持ちの整理のつかない断腸の思いの中、それでも望月葵(法=静岡・清水東)をはじめとする部員に支えられながら練習に励み、延期されていた大会に出場した。異例の1年を乗り越えた内山は「誰と言えないくらい周りの人に感謝している」と、支えてもらった全ての人に改めて謝意を示した。
悲しみも嬉しさも全て分かち合ってきた玲子コーチについては「体の一部」と一言。二人三脚で歩んできた母に一番の感謝の言葉を口にした。早大を背負った4年間。内山は「1年生のときの自分が今の私を見て大人になったなというと思う」とこれまでの成長を振り返った。今後は、まずは開催が決定している2022年の全日本で、表彰台入りを目標に、競技を続けていくと意気込む。早大での経験と築いてきた家族や戦友との信頼関係を支えに、新天地での飛躍を誓う。
(記事・写真 足立涼子)