【連載】『令和3年度卒業記念特集』第51回 田中尚史/航空

航空

持ち続けた向上心

 「伸び代しかない」。田中尚史(基理=埼玉・早大本庄)は学生最後の大会となった全日本学生選手権を終えても、なおフライトへの向上心を持ち続けていた。一パイロットとして、そして早大航空部の主将として、『団体で全国優勝』という目標を達成するため、「グライダーを楽しむこと」を大切にし、部をけん引してきた彼の4年間を振り返る。

 学生最後の大会に出場した田中(写真中央)

 早大入学当初、西早稲田キャンパスに展示されているグライダーを見たことが田中と航空部との出会いだった。もともと飛行機に興味があり、パイロットという職業にも興味があったという田中にとって、大学生のうちに飛行機を操縦するという経験ができることは魅力的だった。また、懇親会などに参加する中で部員間の仲の良さを感じたという田中は「この部なら4年間楽しい思い出をつくれそう」と思い、入部を決めた。

 入部当初、先輩たちの姿を見る中で一人一人が航空部に熱を注いでいる印象を受けた。「この部活は1人で成り立っているのではない。それぞれが役割を全うしているからこそ、航空部が成り立っているんだ」と感じた。グライダーを操縦し、空を飛ぶという部の特性上、1年生が覚えなくてはならないことは非常に多い。「先輩と一緒に行動しながら学ぶなかで、やらかしたことや反省はたくさんある」というが、その一つ一つが田中の糧となった。2年時になると、航空部員としての自立が求められた。自分のフライトの上達だけでなく後輩の指導も求められ、1年時とは違うレベルで考えるべきことが増えた。そして、この年に田中は人生で初めて1人で空を飛ぶファーストソロを達成する。当時の田中にとって、教官に自分の技量を認めてもらったことが何より嬉しかった。このファーストソロが4年間で最も鮮明に覚えている記憶だという。

 3年時になってからはコロナウイルスの影響で部としての活動ができない時期が続いた。3年生になって初めての訓練から代交代を行いはじめるという難しい状況ではあったが、田中が2年時に主将を務めていた山本拓磨(令2法卒)の部への貢献やパイロットとしての技量を尊敬していたことから主将になることを決意した。「いきなり自分たちの代としてチームをまとめることは大変だったが、同期が一丸となって乗り越えられたことは1番の思い出」と語る。

 他大学の航空部とも高め合ってきた

 そして最高学年である4年生となり、「チームを引っ張っていかなければ」という思いはさらに強くなった。部として立てた「全国で団体優勝」という目標に向けて、コロナで止まった期間を取り戻すため、教官やOBが飛んでいる各地の滑空場を活用する新たな試みも始めた。そして関東大会、六大学戦、早慶戦と大会経験を積んで迎えた全日本選手権。結果は5位入賞で目標達成とはならなかった。それでも出場した3人のうち、田中を含む2人が個人入賞を果たすなど、大会を通して成長を見せ、団体優勝という目標に近づいていることを感じることができた。

 田中が航空部の主将として最も大事にしてきたことは「部員にグライダーを楽しんでもらうこと」だった。航空という競技は本番で120%の力を出すことを目指す競技ではない。80%くらいの力で競技に臨み、残りの20%は安全に割かなければならない。だからこそ、自らを極限状態に追い詰めていくのではなく、程よい緊張感をもったうえで常に楽しむことが、実力を発揮するためにも、向上心を保つためにも重要だと考え、日々の訓練から部員たちに伝えてきた。この「部員にグライダーを楽しんでもらうこと」について、田中は「完全に達成できたと思う。自分たちの代で一番変わったなと思うのは部の雰囲気。宿舎での笑顔も増え、下級生のフライトへの意欲も向上した」と胸を張る。

 田中は卒業後、航空会社のパイロットとなり、趣味としてグライダーも続けていく。田中は「一生できるグライダーというスポーツをまだ4年間しかやっていない。技量を伸ばしていく伸び代しかない。ゆくゆくは早稲田の航空部に還元できたら」と話す。常にグライダーを楽しみ、向上心を持ち続けてきた彼の4年間を象徴するような言葉だった。そんな彼の思いはたしかに後輩たちへと受け継がれている。早大航空部が全国の頂点に立つ日も遠くないだろう。

(記事 佐藤豪 写真 部提供)