世界一になった瞬間、最後の1点を決めた松山恭助(スポ2=東京・東亜学園)は喜びを爆発させた。4月5日から9日までフランスで行われた世界ジュニア選手権(世界ジュニア)。早大のエース、松山恭が男子フルーレ団体優勝、男子フルーレ個人でも3位という輝かしい功績を残した。今後日本のフェンシング界を担っていく松山恭に、自身最後となった世界ジュニアを振り返ってもらい、さらに世界で戦うこと、東京五輪に向けた今後についても伺った。
※この取材は4月22日に行われたものです。
「本当に信じられないなという思いが大きかった」
一つ一つ丁寧に話す松山恭
――まず世界ジュニア選手権の個人戦についてお伺いします。個人戦を全体的に振り返っていかがですか
最後のジュニア選手権ということで優勝を狙って練習してきたのですが、最終的に3位となり、今までジュニアではメダルをとったことはなかったので、多くの収穫もありました。しかし準決勝で日本人と当たって、勝たなくちゃいけないところだったのですが、負けてしまって彼に優勝を奪われたというかたちになって、そこが非常に残念なところです。自分の中ではできた方で最低限のことはできましたし、悪くないと思うんですけど、やっぱり優勝できなかったというのは自分の中ですごい失望しているというか、欲しかったタイトルだったので、そこはすごく残念な気持ちのほうが上回っていますね。
――具体的にはどのような収穫がありましたか
2月の中旬くらいにシニアの五輪の出場を懸けたレースが終わってひと段落したところでした。そこから五輪に出られないとなってから、次は世界ジュニアに向けてしっかりやっていかないといけないという時で、本当はもうひとつキューバで遠征があったのですが、それをパスして世界ジュニアのために一か月半自分が足りないことを試行錯誤しながら練習しました。その結果がついたのが、すごい収穫かなと思います。自分がやってきた方向性が間違っていなかったのはすごい大きな収穫でした。
――逆に見つかった課題はありますか
今回の遠征に関しては、どちらかといえば収穫のほうが大きかったです。世界ジュニア個人戦で優勝できればかなりよかったというか、いい大会で終われたので、そこだけが少し残念なところです。ここが駄目だったということはなかったのですが、準決勝に関しては勝たなくちゃいけないという気持ちが前面に出すぎて空回りして体が思ったように動かず、焦ってしまう展開に自分から持っていってしまって自滅してしまいました。
――団体戦を振り返ってみていかがですか
団体戦では厳しい戦いが続いて、相手も強豪ぞろいで。特にベスト16からかなり厳しい戦いが続いたのですが、そういうところで勝てたというのが優勝につながりましたし、勢いもついたと思います。やはり強豪国を倒して行けたというのが、今後の団体戦に向けてもすごいポジティブなことだと思います。
――今回の決勝で、最後回りで44-44になった場面がありましたが、そのときの気持ちは
最後は39-40という負けている状態で回ってきて、今回の決勝の相手は、僕が世界カデ選手権(※)で優勝したときの決勝の相手でした。そのときも一本勝負でその人に勝って、ライバルのように戦ってきました。今回も世界ジュニアが始まる前に、僕の中で勝手に決勝戦この人とやりたいと望んでいたので、団体戦最後にこの人とできたのはうれしかったので、やる前から楽しもうと思っていました。一本勝負で固くなったとかはなかったですけど、試合を最後まで楽しめたかなと思います。
――世界一になった瞬間は
本当に信じられないなという思いが大きかったかなという気がします。勝ったあとに、あまり覚えてないんですよ、今回は。そのくらい勝とうと思って臨んだ戦いに、勝てたというのが非常にうれしかったです。仲間とすごい喜びを分かち合ったのは覚えています。
――団体戦、個人戦含めて、一番印象に残った試合はありますか
やはりそうなると、団体の最後かなという気がしますね。やはり先ほど言ったように、いいライバルとして戦ってきた相手と、ああやって点差もなく決勝の舞台で戦えたというのがジュニアを締めくくるのにふさわしいかなと思いますね。
――早大からも他に4人の選手が出場されていましたが、何かお話などされましたか
ずっと昔からみんな日本代表として戦っていて、結構早大に入る前からコミュニケーションをとってきた人たちです。決勝戦とか個人の準決勝ときも、早大の仲間も応援してくれたので、すごくうれしかったですね。僕も種目は違うのですが、同じ大学からそうやって代表が出てくれることは非常にうれしいことなので、今後も一緒に戦っていけたらいいなと思います。
世界ジュニア選手権のメダルを首にかけてくださいました
「小さい頃から自分のホームグラウンドは早大」
――フェンシングを始めたのはいつですか
4歳から始めました。僕は幼少から今まで変わらず台東区に住んでいて、台東区に総合型スポーツセンターみたいのがあったんですけど、そこが台東区の人たち向けに配るパンフレットを親がもらって、そのパンフレットに様々なスポーツが載っている中にフェンシングがあって、その時のイメージでは「団体じゃなくて個人スポーツだから他の人に迷惑掛けないし」という親の考えからフェンシングやろうっていうことになりました。
――なぜフルーレをメインにしたのですか
海外だとエペの方がはるかに人口が多いんですけど、日本の場合は元々フルーレが主流で、小さいころからフルーレを教え込んでやるっていう習慣だったので、その流れでフルーレをやりました。でも、最近はフェンシングも普及してきたので、エペから始めたりとかサーブルから始めたりっていうのも多くなってきました。
――他のスポーツに気移りすることはなかったのですか
フェンシングの前に空手をやっていました。始めて2年くらいでやめちゃったんですけど。早い段階でどっちかに絞ることになって、フェンシングの方が楽しかったのでフェンシングにしました。
――ここまで続けているということは、フェンシングに魅力を感じていると思うのですが、ご自身の考えるフェンシングの魅力とは
やっているからしか伝えられないこともあると思うんですけど、僕は単純に勝てることが楽しいです。昔はそうだったんですけど、最近はまたフェンシングのことがより好きになったというか。様々なことを考えられるし、フェンシングは身体も大事なんですけど、頭も非常に使う競技なので、その辺の駆け引きとかがすごく楽しいなって思います。
――何をきっかけにそういった感じ方の変化が生じたのでしょうか
昔から考えてるのは好きな方だったので、何がきっかけとかはないです。考えられるようになったのは、昔から親もフェンシングやっていなくて、いろんな地方の大会に参加したんですけど、コーチがいない状態で兄(松山大助、スポ4=東京・東亜学園)と二人でアドバイスし合いながらやっていたからだと思います。そういう地方の大会のときも一人で戦っていたこともあったので、それでメンタルが強くなった部分もありますし、そうやって考えられるようになったっていうのはありますね。
――高校と大学のフェンシングの違いは感じましたか
大学の方が高校よりものびのびできるっていうのはありますね。あとは、やっぱり大学生の方が高校生に比べて責任が自分に大きくなりましたね。今までは親とか経由して自分に回ってきたことが、自分で何もかもやらないといけないっていう責任感が生まれたので、競技よりもそういうところで違いを感じますね。普段の生活が大学生になって変わったなと思います。また、そういう新しい関係になってより新しい考え方もできるようになったっていうのはあります。
――高校の頃はかなり厳しかったのですか
顧問も厳しい方だったのと、高校のときから国立科学センターの方でJISSのオリンピック強化施設で練習していたんですけど、やはり高校と大学だと全然違うなっていうのは感じますね。
――世界で戦っていくと、日本と海外のフェンシングの違いは感じますか
感じますね。外国人と日本人のメンタリティーも全然違いますし、外国人は勝とうとするとすごい力を発揮するので。日本人ももちろん馬鹿力はあるんですけど、外国人は常に相手を殺そうっていうくらいの気持ちでやっているのでそういうところが違いますね。細かいこと言ってしまうとフェンシングスタイルも違います。それは国様々で、特別日本が変わっているっていうのはないんですけど。勝利への執念が全然違うなと感じますね。
――海外遠征で苦労したことはありますか
僕は外国のご飯があまり好きじゃなくて。日本のご飯が本当に好きなんです。前は外国行っても全然食べられなかったんですよ。最近はようやく対応できるようになったんですけど、昔は本当に食べられなかったです。今でも外国行くと食べる量は減るんですけど、昔はもっとひどくて食べない分体調も崩しやすいのでしょっちゅう風邪ひいていましたね。体調面とか食事に関してはかなり苦労しました。
――一番きつかった国はどこですか
フランスのマルセイユ近くのフロバンスっていうところがあって、そこでのご飯がきつかったです(笑)。中二ぐらいのときなんですけど、全然食べられなくてカップ麺ばっか食べていましたね。
――印象に残っている国は
アメリカが好きで、ご飯とかも合ってハンバーガーとかもむしゃむしゃ食べてました。あと、僕のシニアのA代表のデビュー戦がアメリカのサンフランシスコだったんですよ。そのとき結構活躍もできて団体戦で4位だったんですけど、印象深い都市ではありますね。
――海外から日本に話を戻します。早大の印象はいかがですか
もうずっと小さい頃から自分のホームグラウンドはここだって思っていたんで、いつ戻っても先輩や同期が温かく迎えてくれるので改めていいなって思いますね。いつも早大の部活のことは気にしていますし、やはり強くなって欲しいなっていうのはあるので。自分もここがメインではないんですけど、できるだけ来て自分が教えられることは教えて、そうやってコミュニケーションを取っていきたいなっていうのはありますね。
――そもそもなぜ早大に進学したのですか
自分が始めたのは台東区のクラブだったんですけど、その後にワセダクラブに移籍してました。ここ(早大フェンシング場)が練習場だったんですけど、コーチ陣もOBとか現役の学生の方だったりしたので、そういう学生の姿とか見て、ちょっと年齢が上がってから大学の練習にも参加させてもらったりして、部の雰囲気がすごい好きだったので、ワセダ以外考えられないなって中学生くらいからずっと考えていました。必ずここに戻ってくるというふうに思っていたので、今は非常に幸せです。
――部の中で特に慕っている先輩はいますか
比較的全員と仲良いです。同期の茂木(雄大、スポ2=神奈川・法政二)っていう子と仲良いんですけど、その子とは高校時代からずっと仲良くしてもらっています。同期全員仲良いんで、特にっていうと茂木です。みんなとコミュニケーションもしっかりとれて非常にいい関係を築いているなって思います。
――競技を続ける中で挫折した、あるいは競技をやめたくなったときはありましたか
やめたくなったことはないんですけど、挫折は何回もありますね。でも、負けから学ぶこともできたし、そこから立ち直ることもできたのできました。特に今シーズンは自分の中では良かったです。もちろん1年間を通してことしも良かったわけではないんですけど、結果が伴ったシーズンだったかなって思うので、前のシーズンよりはいい成績を出せたかなって思います。
――特技の人間観察はフェンシングに生きていますか
生きていると思いますね(笑)。相手がこの部分、タイミングを嫌がっているなっていうのはやっていく中で分かっていくので、上手く相手が嫌がるものを組み合わせてやっています。
「自分ではまだまだ強くなれる」
――世界ジュニア含めて多くの海外遠征に日本代表としていかれていると思いますが、プレッシャーを感じることはありますか
結構プレッシャーはありますし、あと自分でプレッシャーかけちゃっているなという気はしますが、いろいろ振り返ってみるとプレッシャーには勝てている方かなと思うので、それが勝ちにつながっているかもしれないので、特に不安はないです。今後はもし東京五輪に出場できれば、プレッシャーは計り知れないものだと思います。僕のなかでは初めての五輪になるので、本当にプレッシャーは未知数ですが、今のうちから世界ジュニアの決勝での一本勝負など、そういうところで勝てたというのは今後につながると思います。またそういうプレッシャーがかかる場面が試合でもあると思うので、必ずそういうところで勝っていければ2020年に結果がついてくると思います。
――ことし2月のW杯で男子フルーレ団体日本代表のリオ五輪出場権の獲得を逃しましたが、それを振り返っていかがですか
当時は負けて、出場できなかったことに対して残念な気持ちでした。しかし、今思えば残念な気持ちのほうが上なんですけど、自分個人として、団体戦は6位で終わったのですが、上位の国と競り合って当時18歳で戦えたことが幸せだったなと感じています。
――やはり刺激になりましたか
かなり刺激的でした。あと太田さん(雄貴、森永製菓)とかそうやって日本をずっと牽引してきた選手と本気の戦いを一緒にできたというのが、今後につながるかどうかは2020年優勝できるかとどうかだと思うのですが、次につながる負けだったかなと思います。
――今も東京五輪は意識されていますか
ジュニアという一つの世代が終わって、シニアのA代表として戦っていかなくちゃいけないので、4年後を見据えて今からどうしていけばいいかを考えてやっていきたいなと思っています。
――2020年までも含めて、今後の大きな目標はなんですか
もちろん2020年五輪出場がメインなのですが、そのためには世界のトップ16が予選免除なのでその圏内に食い込まないと厳しいところがあるので、この1年以内に世界のトップ16に入って、2020年の前ではランキング1桁代にいたいなと思います。なので具体的に言うと、2019年にはランキング1桁にいないと、五輪優勝は無理だと思うので、まずこの1年以内にまずそのレベルに達する選手になり、ランキングをどんどん上げていきたいなと思います。
――今後の抱負を一言でお願いします
今は「成長」かなと思います。成長していかないといけないので。自分ではまだまだ強くなれると思うので、まだ学び続けて成長したいと思います。
――ありがとうございました!
(取材・編集 加藤佑紀乃、佐藤諒 写真 山下夢未)
※ジュニアは17歳から19歳、カデは13歳から16歳が対象となった大会
相手が出でこないだろうと思う一手を出さないといけないのがフェンシングと話し、「創造力」という言葉を書いてくださいました
◆松山恭助(まつやま・きょうすけ)
1996(平8)年12月19日生まれ。180センチ。東京・東亜学園高校出身。スポーツ科学部2年。自身の考えを真摯(しんし)に話してくださった松山恭選手。取材の際に世界ジュニア選手権団体戦の金メダル、個人戦の銅メダル、その後に行われたアジア選手権団体戦3位の銅メダルの見せてくださいました!