【連載】『令和3年度卒業記念特集』第50回 増田侑希/女子ソフトボール

女子ソフトボール

「感謝」を胸に「最高」の投手へ

 力のある速球を武器にエースとしてチームを引っ張り続けた増田侑希(スポ=香川・高松南)。チームの絶対的エースであった増田だが、頼れる主将としてもチームを引っ張ってきた。そんな増田の幼少期から早大までのソフトボール人生を振り返る。

 小学校2年生の頃に、近所に引っ越してきた女性の影響でソフトボールを始めた。その女性の投球練習を見た増田は、その頃から『投手』への憧れを抱くようになった。その後、スポーツ少年団に所属し、中堅手や一塁手を経験しつつ小学校5年生になり、投手として本格的にチームを支えるようになった。そして中学生でも投手を続け、日本代表に選出されるまでに成長。しかし高松南高等学校に入学すると、最初は投手でレギュラーを取ることが出来なかった。それでも「学ぶことしかない」と、自らの課題に向き合い練習を続けた結果、2年生でチームのエースを任されるまで成長した。

 そして早稲田大学へ進んだ増田は1年生から存在感を示す。大学初の大会となった東京都大学連盟春季リーグ戦でクローザーとして登板する。その大会で増田は、1点の失点も許さず防御率0.00を記録し、最優秀防御率を獲得する。1年生の時からルーキーとは思えない活躍を見せつけたのである。また増田はU19日本代表に選出され、アジア選手権に出場した。「自分にできることを精いっぱいやろう」と全力で臨んだ同大会、こちらも防御率0.00を記録すると最優秀投手賞を獲得した。

 2年次もエースとしてチームを牽引すると、3年次には主将を任されるようになった。4年生が引退し、3年生は増田を含めてわずか3人しかいなかった。増田は「上級生が下級生をまとめるという例年通りのスタイルが難しい代だった」と振り返る。そこで、増田が意識したのは全員が自分の考えを持って意見を言い合うことのできる「学生主体」のチームをつくることだった。早稲田のソフトボールにおいて、監督が介入せずに選手が主導で練習を行うという「学生主体」は大きな特徴の一つといえる。増田の代ではこのスローガンをより一層意識するようにしたのである。例えば下の学年から発言をさせることで全員が意見を言いやすい環境づくりに取り組んだのである。また、増田たちは他の代よりも一層新型コロナウィルスに苦しめられた。多くの大会が延期になったり、無観客試合になったりなど酷く狂わされた。しかし増田はこうした影響に対して「学びになった」と振り返る。試合が中止になったら何をするべきか、延期されたらどのような練習をするべきかなど選手全員が考える機会を多く与えられたと語る。増田は、新型コロナウィルスさえも、目標とする「考える」チーム作りにとって重要な要因と考えたのだ。

 3年次の春季リーグ戦で圧巻の投球を披露する増田

 新型コロナウィルスの影響で3か月ほど遅れて全日本大学選手権(インカレ)を迎えた。増田は大阪大谷大の打線を全く寄せ付けることのない圧巻の投球を披露すると、この試合を白星で飾った。4年ぶりのインカレでの白星について「ほっとした」と語る。チームを支えるエースとしての力を遺憾なく発揮し、自身初のインカレ2回戦へと進んだ。2回戦の相手は優勝候補である園田学園女大、5回に先制するも増田が6回に適時打を浴び無念の逆転負けを喫した。しかし「悔しいけど、とにかく楽しい試合だった」と振り返ると同時に「このチームでよかった」と語る。チーム一丸となって強敵相手に戦ったこの試合は増田にとって大学生活1番の試合となったのである。

 現在は実業団チームに合流しソフトボールを続けているという増田、ここまでたどり着くのは楽な道のりではなかった。高校時代にけがをして、ソフトボールを続けられるのか不安になったこともあった。しかし増田はそれでも諦めなかった。自分を信じてひたむきに努力を続け、早稲田の絶対的エースとしてチームを牽引した。早稲田で出会いとかけがえのない経験をした4年間は増田自身を大きく成長させることだろう。そんな増田は目標を「日本代表に入り世界の舞台で輝くこと」と語る。これからも周囲への「感謝」を忘れることなく、増田は「最高」の投手への道を駆け上がっていくのだ。

(記事 阿部優歩、写真 杉崎智哉)