吉村正総監督の退任記念特集を行ってきたが、今回が最終回。ティーボールの考案秘話や、吉村が大切にしている学生との向き合い方などに迫った。
※この記事は2019年12月9日の取材をもとに編集しています
「いつでも、どこでも、誰でも」
数々の実績を積み重ねた吉村だが、彼に関して迫る上で、ティーボールを考案したことも見逃すことはできない。そこで、ここまでの話の流れからは少し脱線してしまうが、これに関して触れたいと思う。
吉村は今回の対談において、ソフトボールの魅力とは、「いつでも、そこでも、だれでも楽しむことのできる野球」であると語ってくれた。野球ほどのスペースを要することもなく、女性であっても、高齢者であっても、障害をもつ方であっても楽しめる…。吉村本人も、少年時代にを日が暮れるまで友達とソフトボールをし、それがのちの土台となったという。
しかし、ソフトボールが徐々に根付き、普及していくにつれてそれに特化したレベルの高いプレーヤーが登場。次第にオ競技としての側面が強くなっていった。その結果、得点不足を補うために導入されたタイブレークや指名打者制の登場、バッテリー間の距離の延長、飛距離の出るボールやバットの導入といった数々の要素が加わり、どんどん競技性が野球に近づいていったのだ。
こうなってしまっては、ソフトボール本来の裾野の広さが失われてしまう。競技性を推進していたのも吉村自身であったということもあり、その反省として、いつでも、どこでも、だれでも楽しめるスポーツとして、ボールやバットを柔らかくして、飛距離を出させないようにし、かつ誰しもが打つ感覚を味わうことのできるティーボールを編み出したのであった。そして1993年には日本ティーボール協会を設立。それ以来、現在に至るまでその理事長を務め、ベースボール型競技の普及、発展へ向けて第一線で活動している。
人間教育が第一
ここまで吉村に関する数々の栄光について述べてきたが、彼があくまで第一に掲げていたのは「人間教育」であった。その見地から、目先の結果にとらわれない指導を実践してきた。
過去には部に在籍中に新しくやりたいことを見つけ、その環境に飛び込むために退部することを選んだ学生もいたという。吉村はそんな学生にも暖かく背中を押した。「早稲田の学生である限り、新しい環境にも必ず早稲田の仲間がいて、結局は心でつながっている」。また、やめてしまう部員が出てしまうと、必ずその穴を埋めようとして、新しい選手に活躍の場が自然と開かれる。このようにしてレギュラーの座に定着した選手も数多くいたという。結果的にチームとしての力も高まっていくのだ。
さらには在籍する部員にも一人ひとりにあった向き合い方を行ってきた。国家公務員を目指していた部員には、勉強時間確保のために早朝練習のみの参加を認めたり、通訳としての見込みのある部員にはアメリカへの留学先を紹介したりもした。
「ソフトボールがすべてではない」との方針から、日ごろから部員には勉強することの大切さをも説き続けてきた。その甲斐あって、ソフトボール部員のGPA(学生の成績評価値)は体育会系の中でも常にトップクラスを維持するまでとなった。学生たちに「どこまででも伸びる大学4年間」を十分に生かしてほしいという指導が垣間見えた。
常に学生に指針を示し続けた
今後へ向けて
その思いはこれからの新入部員、いや新入生に対しても全く変わらない。早大という環境にはさまざまな出会いや学びがある。よって絶対にソフトボール部がいいということは決してない。もし興味があるならば実際に部員と話したりして積極的にかかわってみること。もしそれで合わなければ他のサークル、部活を当たればよい。この考え方はぶれることがないという。
しかしながら、男女ともに思うように部員が集まっていないという現状があることもまた事実である。この課題解決に向け、吉村は推薦枠の可能性について目を向けていた。実際、チームの核となるような選手は推薦入試でないとリクルーティングしづらいという現状がある。推薦入試を経て入学してくる学生は、早大だけに目を向け、全国から高い意欲で飛び込んでくる学生が多く、入学後も成績が良好であるという結果も出ている。
このようにさまざまは視点からソフトボール、そして学生について考え、行動に移してきた吉村。引退後も部とは関わり続けるのかを訪ねると、「来るなと言われるまでは行きたい」と笑いながら答えてくれた。第一線は退いたとしても、まだまだ、吉村を慕い、教えを乞う学生たちは数多存在する。そんな学生たちがいる限り、吉村はこの上ない『生きた教科書』として、早大の未来を明るく照らし続けることだろう。
(記事 篠田雄大 、取材協力 大島悠希 杉崎智哉 新井万里奈)