早大ソフト部、いや日本のソフトボール界におけるレジェンドが3月31日付で第一線を退いた。2015年度の定年をもって早大の男子部、女子部の監督を勇退して以降、今年度まで総監督として主に女子部の指揮を執り続けてきたが、ついにエンジのユニフォームへ別れを告げる時が来た。全くソフトボールに関する土壌がなかった早大において1からチームを作り上げ、積極的な米国遠征などを経てのちにインカレ優勝へと導いた輝かしい実績。だがそれにとどまらず、人間教育、ティーボールの考案、学術的な貢献など多方面にて大きな足跡を残した吉村正氏(昭44年教卒=京都・平安)のここまでにpart1~3にわたって迫っていきたい。
※この記事は2019年12月8日の取材をもとに編集しています
野球を続けるのは高校まで
京都の名家に生まれ、父、祖父が二代連続で早大卒という家庭で育った吉村。幼少期から野球やソフトボールに親しみ、抜群の身体能力を持ち合わせていたこともあって、中学時代にはソフトボールの京都大会の準優勝投手に輝くなど抜群の結果を残した。そのような実績が買われ、当時甲子園の常連だった強豪・平安高校に進学し、野球部の門をたたいた。
だが入部当初彼を待ち受けていたのは、当時の行き過ぎた体育会気質。楽しかったはずの野球が嫌いになりかけるほどの衝撃であった。さらには家庭内事情のためにプロ野球を目指すことがかなわないことなどもあって、実力がありながらも「野球を続けるのは高校まで」と自分自身できっぱりとけじめをつけた。
高校卒業後は京都で生まれ育ちながらも、前述のとおり親族が早大と深い関係を持ち、さらには関東への強い意識を持っていたこともあって早大を目指すことを決心。一浪の末、早稲田大学教育学部体育学専修(現在は廃止)に合格した。
入学当初から大仕事
早大入学後は、激動の大学生活を送ることとなる。大学ではソフトボールをプレーすることを強く希望していた吉村だったが、当時の早大にはソフトボール部はおろか、サークルや同好会なども一切存在していなかった。
そのような状況下であれば、普通の学生なら他にも多様な選択肢がある早大という環境において、新たなコミュニティを見つけようと考えるであろう。だが、吉村は違った。ないのであれば自分で作るしかないと考えたのである。
そこで、当時ソフトボール部を早くから有し、強豪校としてならしていた日体大に足を運んだ。そして、なんと自身の投球を当時の監督が受けてくれることになったのだ。超強豪校野球部の中心選手であった吉村の投球に驚愕した監督に、是非早大にソフトボール部を立ち上げてほしいと嘆願され、いわばお墨付きをもらうことに成功した。
これを経て早大の当時の一般体育の先生や学生部の先生と掛け合った結果、手始めに部員を10名集めなくてはならないということになった。そこで、当時自身が過ごしていた学生寮の寮生、そして同じ学部の学生に片っ端から声をかけまくった。声をかけた学生の中にはのちに陸上競技で五輪に出場するような人物もいたという。
このようにして、どうにか2,3日で部員の登録名簿を10名以上集め、部長となる教授や監督も確保し、吉村自身を主将としてソフトボール同好会を発足させることができた。
修羅場を乗り越え、常に圧倒的な結果で示し続けた
自らの行動力で筋を通す
だが、吉村はそれで満足しない。1年目からチーム作りの本格化のため、当時の全学連(全日本学生自治会総連合)のトップと話し合い、実戦の場として、なんと250にも及ぶチームが全国から参加する全学ソフトボール大会の開催を取り付けた。早大ソフトボール同好会は吉村自身がエースピッチャーとなって他チームの打線を全く寄せ付けず、なんとその中で優勝を果たしてしまうのだった。
これにより、同好会を存続させるという筋を学内においても、自分自身においても通すことができたわけである。その後当時国内では敵なし状態であった日体大とも対戦し、敗れてはしまったものの相手打線をわずか3失点程度に抑えた。国内ではコールド勝ちが当たり前であった日体大と接戦を演じたことで、早大ソフトボール同好会、そして吉村自身はさらに名声を高めていった。
「一生懸命やると、7、8割の人はついてこれるが、間違いなくついてこれない人もでてくる。でもそういう存在が自分自身を成長させてくれる。」
ここまでで忘れてはならないのは、これらすべてを入学して間もない1年生のころにほぼ独力でやり遂げているということである。筆者自身を含め、入学当初右も左もわからない状態の学生がここまでの大仕事を成し遂げ、この考えにたどり着くということは並大抵のことではないであろう。次回はpart2へと続く。
(記事 篠田雄大 、取材協力 大島悠希 杉崎智哉 新井万里奈)