試練を乗り越えた先
『自動車レース』、それは世界中の人々を魅了しているスポーツの一つだ。海外、特にヨーロッパでは、最も人気のあるスポーツの一つとして位置付けられているが、日本では世界と比べて人気は定着していない。川上優主将(商=徳島市立)は、自動車レースの魅力を「車が好きな人同士でスポーツをやること」だと語る。主将として幾度の苦難を乗り越え、11年ぶりの全日本学生自動車連盟年間総合杯(全日本総合杯)優勝という念願のタイトル獲得へと導いた。辛いことも多かった4年間。どのように進み続け、優勝に導いたのか、川上の自動車部人生をひもとく。
幼少期から親の影響で自動車に興味を持っていた川上。高校では水泳部に所属していたが、大学で新たなスポーツに挑戦したいと思うように。その時、自動車部に偶然出会い、入部を決意した。1年時はひたすら整備を学び、基礎を習得。2年時には、当時の主将であった齋藤周太(平30人卒)らの代から大きな影響を受けることになる。齋藤らは全関東学生ジムカーナ選手権(全関東ジムカーナ)、全関東学生ダートトライアル選手権(全関東ダート)、全日本学生ダートトライアル選手権(全日本ダート)において、3大会連続個人・団体優勝を果たし、全日本総合杯で2位という功績を挙げた代だ。川上は、彼らから必死にテクニックを学び、「その時の活動全てが印象に残っている」と振り返る。そして、彼らの部全体に対する影響力は4年時の全日本総合杯優勝に大きくつながったと語った。3年時では、主将補佐の役割を担い、実務の責任を負うように。正しい行動を心掛け、多くの仕事をこなしながら、ドライバーとしてダートやジムカーナの練習にも精を出した。団体は、悔しさの残る全日本総合杯2位という結果に終わったが、これをきっかけに奮起。集大成に向けて再出発した。
11年ぶりに全日本総合杯優勝へと導いた川上(中央)
そして、川上の代が始まる。目標は『全国制覇』。川上は、率直に「辛かった」と振り返る。主将には、部の責任者となるとともに、仕事を周りに振り分け、より客観的な立場で物事を適切に判断することが必要とされる。主将になり、問題を模索しながらも周りを俯瞰するようになって気付く多くの問題に取り組み、常により良い自動車部にしようと頂点へ挑み続けた。全日本総合杯は、8月の全日本ダート、9月の全日本学生ジムカーナ選手権(全日本ジムカーナ)、そして11月の全日本学生運転競技選手権(全日本フィギュア)の計3種目の総合点で競い合う。早大は、大きな機材トラブルもなく、全日本ダートでは4位、ジムカーナでは3位、全日本フィギュアでは3位と、安定した順位を獲得。待望の全日本総合杯優勝を獲得した。11年間つかむことができなかった頂点の座を、仲間と共に勝ち取った。過去2年間全日本総合杯2位と、優勝を逃し、悔しい思いを味わってきた早大自動車部。今回優勝へと導いたものは何か。それは『伝統』であると川上は語る。中には途絶えかけた伝統もあったが、再び現役の部員に思い出させてくれる心強いOBがおり、そして部員は先輩から受け継いだものをしっかりと学び、守ろうとする素晴らしい関係がそこにはあった。
川上が主将として心掛けていたことがある。それは、常に部員を尊重して、肯定することだ。川上はエースとして部を引っ張っていったのではなく、何が正しいか、何が間違っているかを部員に示し、常に部に目を向ける、自動車部の親のような存在だった。部員を尊重するため、彼らの意見を常に肯定し、その後一緒になって問題点を考える。また、部員ができることには口を出さずに仕事を任せ、お互い信頼し合う関係を築いた。そうすることで、部員全員が自主的に考え行動するようになったという。このような川上の影での努力が、優勝へと導く一因となった。そして、常に部に目を向け、よりよいものにしようとする姿は、後輩へ受け継がれ、今後の常勝への潤滑油として自動車部のエンジンを回し続けるであろう。
川上は重役を務めていたため、心の底から楽しむことができたかは分からないと語るが、「とても面白い4年間だった」と振り返る。部をまとめる立場となり、辛いことが多くあった。しかし、乗り越えた今は、これから先どんな困難なことがあっても乗り越えられるような強い自信を持つことができたという。試練を乗り越えた先には、優勝だけでなく自分の成長があった。卒業後は自動車関係の仕事には就かないが、趣味の一環として自動車レースは続けていきたいと語る。この4年間多くのことを得ることができた。優勝、自信、そして仲間。4年間の自動車部人生で培った経験を糧に、新たなステージへ向けて、川上はステアリングを握った。
(記事 風間元樹、写真 細井万里男)